長谷九郎 大田村の教育者

 

長谷九郎*は大分県太田村(現杵築市)出身で大田村内の小学校長であった。

*(1953年前後)

  ソロバンの歴史は古くて、紀元前のメソポタミア地方で「砂ソロバン」が使用されていた。日本への伝来時期にはいろいろの説があって確定していない。早い方では8世紀頃、中国から「九九」「算木」「珠算」とともに伝わったらしい。研究者の説の中に長谷の説がある。月刊珠算界 №138(S 19.1)に発表された『十五世紀の初頭、室町時代(1338~1573)の初期、勘合貿易の開始とほとんど同時に輸入されたものである。』とある。

 ソロバンには「四つ玉ソロバン」「天一地四」と「五つ玉ソロバン」「天一地五」があり、多くは「五つ玉ソロバン」が使われていた。

『初学算法』(乳井 貢著・天明元:1781年)でわが国で最初の「四つ玉ソロバン」の提唱があった。<ソロバンは「天一地四」でよい、梁には一十百千万などの命位を刻めばいろいろと利用できる。位を定めてから計算すること(定位布数法)。等を主張している。>

 長谷は「天一地四」の提唱者で、当時の文部省とも掛け合い「天一地四」に統一にすること、算術を算数に名称変更することに貢献した。

 江戸時代前期の数学者吉田光由(1598-1672)は『塵劫記』(絵を多用し基礎から応用まで容易に学習出来るように書かれた数学入門の模範と評価された)の著者として有名だが、晩年が不明であり光由の墓がどこにあるのかがわからなかった。

 香々地町夷は両子山(721m)の西にある夷谷にある。光由は晩年この地で塾「稽古庵」を開いて数学を教えたと西国東群誌に伝えられていた。長谷は何度かの調査で墓を発見したが、刻字がなかった。近くの門人渡辺藤兵衛の墓に光由との関係が刻字されていた。彼は隠れキリシタンであったらしい。

 島野達雄さんの「ある和算研究者の足音・執筆ノート」を掲載する。このノートは長谷夫妻の長女から提供されたものである(国東市安岐町在住)。

 写真:珠算界雑誌と大分合同新聞ー1990/10/24.

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ある和算研究者の足跡・執筆ノート
大阪  島 野 達 雄
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 全国珠算教育連盟・元顧問の、長谷九郎氏のことを書こうと思いたったのは、島原半島のホテルでの対話がはじまりだった。その日は、ホテルの大会場で「全国かくれキリシタン研究大会J の発表がつずいていた。私は、聞きたい講演を三つだけ聞くことにし、ほかの時間は喫茶室でコーヒーを飲んでいた。十ほどもあった発表のうち、大半をサボッていたわけだが、人けの少ない喫茶室に、もう一人、同じようじサボッている人がいた。そこで、どちらからともなく、キリシタンのことを話し合うことになった。名刺を交わすと、「歯科医師・浜崎献作」とあった。
和算を調べている、と私が言うと、浜崎氏は、最近、島原半島でソロバンを抱いたエビス像があいついで見つかっていることを教えてくれた。ソロバンとキリシタンは何か関係があるのではないか、という意見だった。たしか、昭和十四年に安部元章という人が「切支丹宗とソロバン」としづ文章を書いていますよ、と言うと、ぜひ見せてくれとのこと。
 大阪に帰って、「切支丹宗とソロパン」のコピーをとり、ふと考えた。
これだけでは愛想がない。自分の文章も書いて送ることにしよう。確実に読んでくれる「読者」が保証されていると、書く気が起こるものである。浜崎氏はエビス像の話をされた。エビスといえば、国東半島に夷とわう地名がある。劫記の著者・吉田光由のものと伝えられる無銘墓があり、昭和二十八年に長谷九郎氏が調査されている。ひとつ長谷九郎氏のことを書いてみよう。
いま思えば自信過剰もよいところだが、まったく資料が手元になかったわけではなし、まず、長谷氏が残された「手稿」を半年ほど前に手に入れていた。
 平山諦先生の「和算の誕生 (恒星社厚生閣)が、長谷氏の論文を紹介しているのはご承知の通りである。この長谷氏の論文自体も、すでに読んでいた。
ただ、長谷九郎氏の経歴がわかっていなかった。とんな人生を歩まれたのか、まったく知らなかった。全国珠算教育連盟の顧問をされたことも、そのときは知らなかった。わからないことは知っている人に聞けばよい、というのが、これまでの経験から明らか。私は、ご遺族を探すことにした。
 ご出身地と小学校の校長先生だったことは知っていたので、電話番号案内で、「大分県西国東郡大田村・教育委員会」を調べた。さっそく電話をかけると、うまいぐあいに「長谷九郎先生の家の電話番号」を知っている人いて、ていねいに教えてくれた。臆面もなく、その番号に電話した。女性の声がかえってきた。
 このご婦人こそが、亡き長谷九郎氏の奥様、長谷文子さんだった。
文子さん(ほんとうは文子万自(とじ) というべきだろうが. .. ) からは、長谷氏が「四つ玉ソロパン」の功績者であることなとをうかがった。昭和十四年、文部省が小学校の計算器具に「四つ玉ソロバンJ の採用を決めたのは、若き長谷氏が大分からはるばる東京まで足を運んで建議されたからである。同じころ教科名が「算術」から「算数」に変わったのも、長谷氏のおかげである。
 さて、ここからが、われながら大胆というか不敵というか、なにはともあれ、第一稿を書いてみた。ぜんぷで原稿用紙70 枚ぐらい。ほんの10 分ほどの文子夫人への電話取材で、長谷九郎氏の経歴をもり込んで、小説らしきものを書きあげた。
前半は、長谷氏の手稿にもとづいて、吉田光由のものと伝えられる国東・夷の無銘墓の、実地調査のようすを再現してみた。後半は、ちょっと語弊があるかもしれないが、平山諮先生と長谷氏との「確執」を主題にした。
 話のついでに、「確執」について、ひとこと。
映画や演劇jのセオリーの一つに、「ストラグル(闘争・確執・対立)を描けJ というのがある。人間を描写するとは、人間関係をえという理論。

 いわゆる「葛藤」のほか、人聞社会には、さまざまな「確執J がある。
歴史にもストラグルがある。キリシタン信仰との関連では、ひとくちに「キリスト教J といっても新教と旧教の対立がある一(イエズス会の幹部であるヴァリニャーノは、一向宗の教えはルタ一派の説と同じだ、と力説している)。旧教つまりカトリック内部にも、イエズス会やフランシスコ会などの修道会どうしの対立がある。さらにはイエズス会内部にも神父とうしの抗争があるし、外国人宣教師と日本人信徒との争いもある。日本人信徒とうしの対立もあった。
 はやい話が、「こう考えるのがいちばん良い」「こうするのがいちばん良し」と誰か言ったとしたら、反対意見がかならず存在する、一方と他方の、両方を描け、というのが「ストラグル」の理論。
このような経験則にもとついて、「ある和算研究者の足跡」第一稿ができた。浜崎氏と出会って一週間ほとで書いた原稿は、浜崎氏、文子夫人をはじめ長谷あわせて5 人にお送りした。
この時点では「読者」を長谷文子さんに想定していたように思う。このあと、事態は、予想以上に進んだ。
はじめの5 人のうち、和算の研究家から、「この原稿は面白いので、○○先生にもお見せしたらよい」と勧められた。○○先生に送ると、xx 先生を紹介された。
もちろん、ここの文章はおかしい、というご指摘も受けた。
 そのつど、訂正した原稿を関係各位にお送りした。かくて5 人が10 人になり、10 人が20 人ぐらいになった。読者が増えたわけである。なかには、お送りした覚えがないのに、どこで入手されたのか、「感動した」とわざわざ電話をくださる方もいた。
 第一稿から数えて一年半、第十稿ぐらいまで訂正しただろうか、〈じつは、まだ誤字や脱字があり、いまでも訂正したいと思っている〉。平成十年にいたって、この「ある和算研究者の足跡」を序説にすえて、近畿和算ゼミナールで発表したレジュメ類を簡易製本することにした。書名は、国東が生んだ哲学者、三浦梅園の言葉からとった。「人生恨むなかれ、人の識るなきを。幽谷深山、華(はな〉自ずから紅なり。」
ここから書名を「華自紅」にした。
ざっと見つもって、和算の研究者が全国に100 人。 キリシタンの研究者が、同じく100 人。「華自紅」は二百部つくった。
このぐらいの方々に読んでいただけたら十分、と考えた。そのなかで、私が、いちばん読んでもらいたかった方のお手紙を、最後にご紹介する。
「華自紅有難う。…八十八才を記念して書いた「和算の誕生」は説明不十分でした。 六年たって漸く人の目を引くようになりました。」
平山諦先生は、平成十年六月二十二日、93 才で亡くなられた。
そのひと月前のお手紙だった。
長谷九郎氏もそうだが、学問の世界で、生涯をつうじて前向きな姿勢をつらぬかれた平山先生は、ぽんとうに偉い人だな、とつくづく感じる。

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田深谷総目次2009~2011

全体のタイトルを表示、検索は日付を頼りにめくって表示して検索して下さい。

20110726 第92回大光寺文化講演会 2011718 アドレス変更 20110619 東日本災害と文化財
20110617 ホットスポット 20110611 世界農業遺産佐渡・能登登録 20110608 第91回大光寺文化講演会
20110309 桜吹雪 20110307 報道 20110303 瓜生島1
20110224 空也 20110222 高野長英 20110214 蓮如
20110109 渡辺崋山 20110130 野上弥栄子 20110127 湯川秀樹
20110122 大蔵永常 20110116 ペトロ岐部カスイ 20110101 田深谷2010
20101114 三浦安貞(みうらあんてい) 20101113 食の甲子園全国大会で国東高校優勝! 20101024 田深谷のえびす様
20101020 第87回大光寺文化講演会 20101018 ソーシャルワーカーウイズミュージック 20101015 音蔵(おとくら)
20100909 1989年ー劉暁波さんのノーベル平和賞 20101007 セレンディピティ ー鈴木-宮浦カップリングの誕生 20101007 クロスカップリング反応
20101002 国産ジェット機 20100928 パソコンの日 20100909 モバケー&ガラケー
20100828 つながりはSNS 20100816 新選組とコンコルド 20100807 第86回 大光寺文化講演会( 無料)
20100721 円仁さんの軌跡 20100701 集いーくにさき古代祭り2010 20100625 無着名について
20100621 忸怩戒(じくじかい) 20100618 ハートプロジェクト 20100615 国東半島世界遺産暫定入りも遠い!
20100601 全日本邪馬台国論争大会 20100515 愛 燦々(あいさんさん) 20100506 山は富士、海は瀬戸内、湯は別府
20100505 古代宇宙に謎の巨大天体ー卑弥呼 20100425 「心の過疎にはならない」大光寺文化講演会 20100420 田深谷の田植え(2)
20100416 観光庁アクションプラン 20100415 田深谷の田植え 20100414 デニソワ人
20100412 市議選結果 20100408 国東市議選 20100406 田深谷の映画館
20100402 国東市の指定文化財 20100401 三国志の英雄・曹操の墓(2) 20100110 北林さんの玄語研究
20100108 三浦梅園学びの道が成長中! 20100101 魏王の墓 20100101 一知一乱(いっちいちらん)
20091228 あいさつ運動 20091226 三浦梅園学びの道を歩く 20091209 田深谷雪
20091217 国連気候変動枠組み条約 20091205 復活 三浦梅園学びの道 20091204 長岡さんからの便り
20091201 長岡卓油彩画展 20091129 山車の消息その2・旦過寮 20091128 山車の消息その1
20091128 くにさきの信仰と祭り 20091122 旦過入り口界隈 20091105 麻田剛立2
20091102 国東の文化遺産展 20091101 梅園さんの「疑団」 20091007 テロメア
20090924 田深谷スペッシャルレポート 20090923 習気(じっけ) 20090919 大友宗麟・義統
20090914 次のステップへ 20090901 一炊の夢 20090831 河野清美
20090828 空の日「スカイフェスタin大分」 20090827 吉武東里 20090826 物集 高見
20090825 田深谷の稲刈り始まっています 20090824 世界ジオパーク 20090821 羽田D滑走路
20090820 江口章子 20090819 3つの挑戦 20090818 毛利空桑
0813-0817 天眠 20090812 脇蘭室 20090811 パラダイムシフト
20090810 高分子学者 友成九十九 20090807「 2009 近畿まほろば総体」 20090807 三浦海岸花火大会
20090806 気骨と正義の政治家 西村英一 20090805 数学者末綱恕一 20090804 くにさき古代祭り
20090803 採石して天にいたるー大嶽山採石場 20090731 麻田剛立 20090730 重光 葵
20090729 岐部与平さんと国東町史 20090728 生命は流れの中にある 福岡紳一 20090727 宇宙図
20090724 邪馬台国と国東半島ーふたかみシンポ 20090723 現代語訳『玄語』の紹介 20090722 玄語とは何?
20090721 「 時はこんこん、処はおうおう」 三浦梅園 20090710 一結杳然(いっけつようぜん) 20090709 吾輩は・・・
20090708 過疎化とブロードバンドサービス 20090707 水稲民族 20090706 ペトロ・カスイ岐部と187殉教者
20090705 くにさき公園(長峰公園)由来記 20090704 清流!?田深川 20090703 オープンソースと「見える化」
20090702 西林寺田深学校(その2) 藤原義江のこと 20090701 世界遺産とコンピューターソフト 20090630 二輪二条歩行型田植機
20090629 地震と地質 20090628 竹田山大光寺 20090627 夕張夫妻
20090626 滝口武士その1 20090625 上田勉梅園詩集研究 20090624 川の音2
20090623 国東市市議会傍聴記その2「価原」 20090622 国東市市議会傍聴記その1「情報公開」 20090620 横手陽弓遺跡
20090619 ペースメーカーの父 田原淳 20090618 川原条理遺構他-川原千疋上がる 20090617 新科学モラロジー-廣池千九郎
20090616 福澤諭吉展 20090614 「豆腐屋の四季」松本竜一 20090613 国見の歴史と文化を高める会
20090612「京一」地名は生きている01 20090610 戦没哲学徒の詩集・孤櫂(ことう) 20090608 明治田深小学校ー西林寺
20090606 川の音 20090505 遺跡分布 20090601 銅像ふたつ
20090531 シロネ(希少植物) 20090528 伊能測量隊が国東にも 20090527 住職と国東塔
20090525 故人の業績 20090523 おとなりのホテイアオイ 20090516 ほてい草除去02
20090508 田深川のほてい草除去01 20090507 田深谷の夕日 20090504 田深川のほてい草
20090428 閉店しますー50有余年・・ 20090420 自動田植機と田んぼの大きさ 20090420 メランジュからのメッセージ
 

メランジュな情報発信します。(見出しの再掲)。
メランジュとは日本列島の基部を構成する地層混合体のことです。プレートの動きで地層が押し込まれて混合していきます。列島の一部は太平洋の南部から長い旅路のはてに現位置に移動してきました。大地も田深人も旅人なのです。ここ国東(くにさき)は両子山(標高721m)を中心として直径30kmの円形の半島です。東西南北に28谷があり、ほぼ10万人が生活しています。田深谷は両子山から真東に向かった谷で、ほぼ1万人が住んでいます。半島のこと、日々のことなど新羅万象を交えてお伝えします。
プログ「田深谷(たぶかたに)のくらし」です。

(種子・趣旨・主旨の」拡大版作成中)

 2011年からは人物と地域を拡大して思いつくままにテーマを広いあげて掲載します。twitterとfacebookなどのソーシャルネットワーク(SNS)が世の中を変えつつありますが、情報が早い分、断片的で人間の脳みその滋養になっているかどうか疑問です。

1つのテーマが1000字程度にまとめています。
ご意見など歓迎します。
Twitter:@tabukatani

Face book:Genichiro kayashima

管理人:田深谷住人

ご意見は@tabukataniでツイートでとどきます。

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「田深谷のくらし」2009-2011、147Blogs

編集経過報告:12月13日現在、147Blogs分とりあえず終了。随時整理します。
第92回大光寺文化講演会2011-07-26

アドレス変更2011-07-18

お願い!
 いつも「田深谷のくらし」をご高覧いただき厚くお礼申し上げます。
 このブログを掲載していますモバイル・ミー・コムが2012年6月30日にコローズすることが決まりましたので、このブログはそこまでの継続とします。
 今後のあたらしい記事は「tabukatani」に掲載します。
2011年7月10日よりオープンしています。今後もご愛顧の程お願いします。
                            20110718 田深谷住人

東日本災害と文化財2011-06-19 20:55:15

ホットスポット2011-06-17 20:06:15
2011年6月16日、政府の原子力災害対策本部は福島第1原子力発電所から半径20キロメートル圏外の計画的避難区域以外の地点で年間積算放射線量の推計値が20ミリシーベルトを超える恐れがある「ホットスポット」について、「特定避難勧奨地点」として指定する方針を決めた。
 さてこの「ホットスポット」の意味だが、もともとはいろいろな場面で使われている。例えば都市の中の歓楽街とか、政情不安で不穏な地域とか、ネットの上でポータルサイト的な特別なゲートウエイであるとかである。地球学では地溝帯の中にあってマグマの上昇部で火山が噴火している山体をホットスポットと言う。
 日本列島は4つのプレートが重なるところで、311東日本大震災は太平洋プレートが沈み込むことによって発生した連動型の地震であったが、ホットスポットはマグマが上昇することにより形成され、連続した火山帯が出来ることが多い。1861年以来の噴火したエリトリアのダビ火山は紅海からアフリカ東南部に続くアフリカ大地溝帯の中にあるホトスポット火山である。この地溝ベルトは大陸の裂け目とも言われていて、マグマの上昇部にあたる。またこの地域は人類発祥の地とも言われていて、人類のホットスポット?
さて以上のように見てくると、今回の 特定避難勧奨地点=ホットスポットは用語の使い方がいいかどうかいささか疑問のような気がする。
局地的に放射能が高い区域をホットスポットと言っているわけで放射能の降下とマグマの塊を同列と見立てれば上下が逆で同じか??変化の兆しか???
 (写真は6月16日のダビ火山、写真上部のT字の雲の下あたりです。NASAの映像)

追記:2011.06.17 03:04 強い揺れ(VII:Very strong)噴火あり

農業世界遺産2011-06-11 17:49:15
思い出の能登・佐渡が農業世界遺産に登録!
 いずれの島も空港問題で関わった離島であり、思い出が多い。能登は新空港が出来たが、残念ながら佐渡は旧空港のままである。佐渡は受賞対象が特別天然記念物トキと共生するための減農薬稲作の取り組みであり、自然志向という意味ではよかったかな。
「世界農業遺産」と呼ばれる「世界重要農業資産システム(GIAHS)」について討議するため、北京で開催中の国連食糧農業機関(FAO)の「 GIAHS 国際フォーラム」は10日、運営委員会を開き、新潟県佐渡市と石川県・能登半島の登録を決めた。
 GIAHSは、地域環境を生かした伝統的農法や、生物多様性が守られた土地利用システムを保全する目的で、2002年にFAOが創設。今回は日本の2カ所のほか、稲作やカモの飼育などの伝統農業を守る中国貴州省の少数民族居住地域、従江など2カ所も登録された。これまで中国、ペルーなど8件が認定されているが、日本からの登録は初めて。滞在型の余暇活動を指す「グリーンツーリズム」などにより観光客の誘致が期待でき、地域振興への弾みとなりそうだ。
 佐渡市は自然と人間との共生、能登半島は歴史や伝統を農業文化と一体化して保存する努力などが評価されたとみられる。佐渡市は国の特別天然記念物トキと共生するための減農薬稲作の取り組みで、能登は七尾市など4市4町で見られる棚田や浜辺での営みなどを組み込んだ「里山里海」を申請していた。これまでの8件はペルー、チリ、フイリッピン、アルジェリア、中国3件、ケニア、タンザニアである。今回3件が追加で11件。中国が4件でダントツ。先進国では日本だけである。(写真はフィリッピンの棚田風景)。
FAO=国際連合食糧機関。

第91回大光寺文化講演会2011-06-07 11:10:15

シーボルト兄弟2011-03-27 15:01:15
 アレクサンダー・フォン・シーボルト(1846-1911)は長男で、1859年父シーボルトに連れられて12歳のとき来日、日本語を取得、イギリス公使館の通訳官として勤務した。その後日本からの使節団通訳を務めて日欧の交流に重要な貢献をした。条約改正会議に加わって、兄が日本側、弟がオーストリア・ハンガリー側の通訳官として働いていたのでシーボルト兄弟間で話し合いが持たれたこともあった。最終的には日本国籍を取得せず1887年プロシア国籍を取得した。生来病弱で64歳のときイタリアジェノバで亡くなった。どちらかといえば政治家あるいは外交官として活躍したが、日本の工芸技術の興味からコレクションの収集も多い。

 ハインリッヒ・フォン・シーボルト(1852-1908)は次男で日本の考古学と民俗学分野での研究が主で膨大なコレクションはオーストリア国立工芸美術館はじめイギリスケンブリッジ大学に蔵書が寄贈されている。1869年日本へ、通訳官などとして活躍しながら、日本人と結婚しているが、病気のため帰国し、1899年イギリス人と結婚、チロル州のフロイデンシュタイン城を購入した。なお、1889年にオーストリア国籍をやっと取得している。日本には27年間近くいて、日欧の交流に貢献しているようだ。

 1868年明治革命をはさんでシーボルト親子は日本にかかわったことになる。

 シーボルト親子と日本のかかわり合いは複雑で単純に割り切れない。シーボルトが日本に来たのは自発であって招待ではない。特に大シーボルトは短い滞日に関わらず多くの功罪を残した。特に江戸幕府の対処方法に問題が残るものの日本地図の持ち出しにかかわる日本人が多く死罪や自決したことはやるせないことである。鎖国政策の功罪も検証しなければならない。今後の日本列島を守るために。

シーボルト2011-03-23 21:10:15
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)(大シーボルト)

 1823年長崎に到着。ドイツ生まれであるがオランダ人といつわって入国を許可された。この年楠本其扇(お滝)と結婚している。日本の植物・動物の研究を進めながら近隣諸国の情報収集をはじめていたようだ。鳴滝で教えていた日本弟子たちに論文にテーマを与えてオランダ語で提出させて、情報の収集をはかったともいわれる。先に紹介した高野長英もこの時の弟子の1人であった。

 その後いわゆるシーボルト事件があって、1830年国外追放となった。民俗関係のコレクションと図書は全てもどされて、シーボルトとともにヨーロッパに渡った。

1859年、12歳の長男を伴って長崎を再訪した。この時30年前のシーボルトへの判決を取り消しを求めて許可されている。1861年江戸幕府の顧問として日本の開国論を展開したが、独善的な行動でいきずまり1863年依願退職した。1866年敗血症でミュンヘンで死亡した。シーボルトの国籍は複雑であるという。先祖、両親、本人の行動など多国籍な動きで一生を終えているが、一応オーストリア人とするが国粋主義者ではない。まあ当時にあって国際人である。それにしても江戸の日本には多大の影響を与えた人物である。1868年明治維新。1866年、70歳、明治革命を知らずに没。(続く。)

間宮林蔵2011-03-20 11:46:15
—お見舞い—
 東北地方太平洋地震で 亡くなられた方々には哀悼を捧げ、 被災された皆様にお見舞い申し上げます。今後も大変ですが力をあわせて国民一丸となってがんばりましょう。ここ1週間の動きは後世に残る災害史のワンウイークでした。あらためてレポートします。2011年3月11日は(マーチ11)と表記させていただきます。

 間宮林蔵(1780-1844)は茨城県水海道に近い伊那町の出身である。ここの管理人は千葉柏市に在住時には車でここらを往来したが、関東平野の東よりの地域でなんの変哲もないところで天気がよければ北に筑波山、西にはるかに富士山が望める。林蔵は小さい頃から奇童といわれていたようで十代のうちに江戸に出たようだ。林蔵の師は村上島之允で、1799年幕府の蝦夷地経営の調査に19歳の林蔵が同行したことが蝦夷地にかかわったはじめてであろう。

 1799年、南千島に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び、その後、1811年江戸で再開を果たしている。1803年西蝦夷測量、1806年ニコライ・レザノフ事件、1807年フォボストフ事件、1808年樺太探索、島であることを確認し黒竜江下流域の調査も行っている。そのことなどがシーボルト日本地図に認められて「マミヤノセト」と間宮海峡最狭部の名称に残されている。1811年ゴローニン事件に遭遇している。林蔵はよくよく北方関係の事件にかかわっているが、幕府の北方探索が仕事であったからやむを得ないことか。後にシーボルト事件といわれるスパイ事件が発生している。日本地図を持ち出すことを画策したグループを裏切った中心人物が林蔵であるといわれて、関係者が多数処罰された。そのせいか晩年は不遇であった。歴史に大きな名を残しながら裏切りの汚名のもとにさびしく消えて行った。林蔵の交友関係には川路聖謨、徳川斉昭、藤田東湖らと交友があったといわれており、日本を守るという使命感が強よいのではなかったのか。儒教的な感じでは交友関係、師弟関係裏切りは許せないから晩年の林蔵は不幸であったのだろう。本人は「国を守った」と今でも思っているに違いない。「守る」とはむつかしい。

桜吹雪2011年3月9日水曜日
 桜吹雪は田深川の古地名である。3つの川が合流する中田、立野、川原、岩屋、城川、山吹、原地区などは「桜吹雪」の地名をもつ。名前を聞いただけで今の季節、ロマンを感じる。実は田深谷の神社の創建はここにはじまる。この時代中央では平城遷都710年、律令国家が始まりの時期でもあり、古事記・日本書記が出来たころでもある。
 この国東半島・田深谷は直接、中央の影響で神社の創建がされたようだ。当時海路交通が盛んだったようで、瀬戸内に開けた半島の国崎津は港の機能があったのだろう。
・山神社718年(成仏)
・初八坂社719年(山吹)
・熊野社725年(岩屋)
弘法大師(空海774-835)の一代記によれば、山吹初八坂社に諸国めぐりの時、祈願したとある。真偽の程はわからないが、ありがたいことではある。

 その後の神社の変遷でみると

・桜本宮(川原)ー田深谷の北側の台地にあり、聖地「春日山」の全面に1019年創建、この時初八坂社の氏子を 立野、川原、岩屋などの地区毎分けた。
・桜八幡社(鶴川)ー海岸に近く鶴川台地の中心で空也創建の興導寺に1157年創建。この時川原八幡を桜本宮として鶴川は桜八幡とした。
:何故川原→鶴川に移したのか不明だが、記録では川原地先田深谷の中ほどに「とび弊」なる一角があってケヤキと祠があるところだが、「ある時白弊が木枝にかかっていて、ご神体を鶴川に移せと」あったらしい。世の中は77代後白川天皇の院政時代とある。福岡京都郡の和気氏が国東の地に来た時にこの移転を決めた。自分の姓を桜吹雪の桜をとって桜木と称し八幡社を移転したようだ。したがって鶴川八幡は「桜八幡」となった。
 和気氏の地元京都郡(みやこ)は宇佐神宮の起源にも関係が深く、宇佐ー国東の関係強化が目的だったのだろう。鶴川台地側からみると縄文弥生の自然神が空也の仏教に変わりさらに宇佐神に変わったということである。
 小さな谷にも時代の波は容赦なく押し寄せている。
 谷の真ん中にぽつーんと残されている「とび弊地」は不思議に思っていたが、やっと判明した。誰かが守っていると見えて時々献花している。山吹→川原・春日山→鶴川の変遷が実際に見える地が「とび弊地」であるが、そのことを語る人がもはやいない。
 「弊」は神前に供える布帛にことで、貨幣・紙幣の弊である。いずれにしてもありがたいことのようだ。グッドラック!

報道2011-03-07 13:29:15
 昨日の出来事です。前原外務大臣があっさり辞任です。いさぎよいと言えばかっこいいことで終わってしまうのですが、ほんとにこれでいいのでしょうか。政治家になる人は志を高くかかげて精進にはげんで選挙で洗われて実績をあげて運がよければ大臣になれるし更に運がよければ総理大臣になれます。このすばらしい日本を守るために働くための国会議員の基礎条件であり目標です。 国会の先生大丈夫ですか。

 さて、昨晩のマスコミ(マスゴミではありません)の状況報告です。写真をご覧いただくとわかりますが、管理人の新旧3台のパソコンの上での話です。左は民放テレビ放映、中央はインターテレビで生中継、右はツイッター用に使っています(現在消灯中!)。時間は23時4分36秒です。前原さんが官邸出たのが20時15分、左のパソコンテレビはそれを放映しています。中央のライブ映像では前原さんの質疑応答の最終場面が映っています。この時間差は169分。なにが違うのか。時間差だけではありません、テレビは切り取り断面に対してパソテレは連続の情報が直接あなたに届いています。今回の前原会見は21時42分にはじまり23時過ぎまでの情報が流れていたことになります。 会見場の雰囲気などがそのまま伝わっています。報道の即時性、無加工・無修正。

 最近の北アフリカ・中近東の広義の情報革命はこのマスメディアの進展に寄るところが大きいと思われます。多神教の日本は北アフリカのような一神教の国のような革命は発生しないでしょうが、情報格差に日本国民は怒るかもね。情報格差をなくすために情報拡散・情報伝達にSNSやブログ、メールを駆使していくのも新しい方法かもね。 情報大国日本。

→一部ではもう始まっている! そうですか。

瓜生島 12011-03-03 16:41:15
 そのむかし豊後(別府)湾には瓜生島、大久光島、古久光島、東住吉島、松島などの島々が浮かんでいた。瓜生島は東西36丁目、南北22丁目あり、古代から栄えた。室町時代になって豊後一の貿易港として栄えたという。大分(府内)からこれらの島を通って別府に抜ける交通路が開けていたという。島には神社もあった。島の人口は700〜1000人であったという。以上が伝説の概要である。以下記録には次のようにある。

 地震発生後間もないある日、 桜八幡宮 (国東町)の宮司坊権大 僧都(そうず) 豪泉(ごうせん) は、同宮宝物の 大般若経(だいはんにゃきょう)第424巻の巻末余白に「文禄五年丙申潤七月九日大地震仕、豊後興浜悉ク海二成、人畜二二千余死ス、前代未聞条書付申畢、当宮司豪泉誌之」と書き留めている。その後、尾ひれがついた噂が伝わったらしく、「亦□興ノ浜計二十万人死ト云々」と署名の上に書き加えている。豪泉56歳の時の記録である(579巻)。次の史料は地震後72年目の寛文7年(1667)のもので、今津留村萩原村に連なる原村庄屋文書である。「みこ田」をめぐる高松村との相論文書であるが、発生は9日7ツ半(午後5時)時分に「ゆり出し」津波が押しよせた。なへ(地震)のゆり出しは高崎方面からで、長ふちからみこ田にかけて地割れがおこったという。さらに、原村については、「大地震大浪仕、右之田畠大分損シ無田ニ成申候ニ付…」「大浪大地しんニ田畠大分ゆりこみ、むたニ成…」ともみえる。この二点の史料からすれば、地震発生は「由原宮年代略記」等にみえる閏7月9日の午後5時ころとするのが正しいことになる。また、陥没というより「ゆり込み」とあるように、液状化現象による陥没を思わせる。なお、原村の沖あいに隣接していた 松崎村住吉村は全て海没したとある。以上から、瓜生島は架空の島であることが明白となった。したがって、歴史学によって証明された沖の浜海没の事実から、地震の名称は少なくとも「沖の浜地震」改められるべきであろう。

 これらの他にもいろいろの記録が断片的にある。ルイス・フロイスの日本史の記述では大分の沖合3マイルに「沖の浜」なる海港があったと言っているなどのことから何かが存在していたのは事実と言っていいのでないか。(続)3回掲載予定。

掲載図は瓜生島古図(豊陽古事談)

空也(くうや)2011-02-24 11:25:15
 空也(903-972)は尾張の人らしい。平安時代皇室の出で、民間の浄土教の先駆者で踊り念仏で著名である。当時の最大宗派の天台宗よりは超宗派的な立場の布教をめざしたという意味では生活仏教とでもいうべきか。教典はない。空也は布教活動のかたわら社会活動を盛んに行った。空也は生涯を沙弥(在家僧侶)で通したといわれる。僧にも俗にもとらわれない立場で沙弥生活を送ったようだ。火葬、念仏、弥陀、浄土、地蔵閻羅王などの実習と教学にかかわる諸項目を結びつけて布教し民衆の共感を得たようだ。沙弥でしか出来ないところに空也の存在意義がある。

 空也の彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この六体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の六字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとっている。運慶の作で国宝となっている。

 実はこの空也の残像が国東半島国東町の鶴川台地にある天台宗興導山興導寺とその周辺にある。開基したのは空也上人といわれる。古興導寺遺跡として国東市指定文化財に指定されている。掲載の写真は空也池という。空也が平安京に六波羅蜜寺を建立し、諸国行脚の末、国東の鼻山あたりに上陸、965年、興導寺を創建したことになっている。空也が国東半島に来たかどうかは伝説の域を出ないが、半島住人の先達が空也上陸のストーリーを創作したのであろうか。沙弥であるから空也を選んで開基としたのであろう。

 興導寺の名称は六郷満山(天台宗)系が半島に進出する前から存在していたと思われる。そのことも空也上陸伝説に関係あるのかも知れない。古人達はすばらしいまちおこしをしたといえないか。台地下の海岸には空也上人が上陸したといわれる「お上がり崎」の地名がある。海岸線沿いにサイクリングロードがあり、格好の散策道となっている。

高野長英2011-02-22 11:33:15
高野長英(1804-1850) は奥州水沢の人である。47歳の若さで自殺。ここでも若い命が落ちた。長英と渡辺崋山は江戸で面識があった。この時長英29歳、崋山は40歳であった。この頃豊の国日田の大蔵永常と長英も交流があったかも知れない。

 長英は19歳の時長崎に行きシーボルトの鳴滝学舎に入り蘭学を学び、蘭語論文をシーボルトに提出しドクトルの称号を得たというから早熟の天才であろう。

 蘭方医高野長英は、わが国最初の生理学書「医原枢要」や「泰西地震説」「二物考」などの著述が多い。水沢にある高野長英記念館では、訳書、著書、手紙および遺品など約200点を展示している。その中には長英が獄中で書いた「爪書の詩」や「砲家必読」全11巻などの貴重な資料も所蔵されているようだ。

また、5月5日には高野長英誕生祭、10月30日には高野長英祭が行われ、記念館を無料で公開している。水沢市内には長英の旧宅や菩提寺などがあり、長英ゆかりの遺跡を見学できる。掲載の地図は長英が旅をした軌跡であるが、かなり広範囲である。さて、図中にある日田立ち寄りについては「 大分県西部の筑後川上流に位置する日田市は、江戸時代、九州の幕府領を管轄する日田代官所が置かれ、豪商が居住し金融業に活躍したところである。この日田に、儒学者の広瀬淡窓が開いた塾「咸宜園」があり、大村益次郎など多くの門人が輩出された。シーボルト事件で長崎を後にした長英が、熊本を発って江戸に向かう旅の途中に立ち寄ったとされる。ただ、旅中の診療記録である「客中案証」に日田周辺の地名が無く、日田立寄りに懐疑的な意見もある。」という記述が記念館資料にあるが、長英が立ち寄ったのは淡窓ではなくて大蔵永常の関係ではなかったのか。長英と永常は渡辺崋山を介して面識があったのではないかと思う。崋山と長英らは蘭学を通じて幕府の鎖国政策を批判して、いわゆる蛮社の獄に連座して短命に終わった結果となった。長英の死後4年目にペルーの来航があり、幕府は開国政策に転じた。崋山・長英らは近代日本を創るために果たした功績は大きい。

蓮如(れんにょ)2011-02-14 12:55:15
蓮如(1415-1499)は京都・東山大谷生まれである。法然に始まる浄土宗、親鸞の浄土真宗の跡を継いだかたちの僧門生まれが蓮如である。法然・親鸞ともに僧門以外の出である。蓮如は85歳で大往生した人であったが、妻の死別により5人の女人と結婚、27人の子供をもうけた。この面でもスーパーマンである。

 蓮如の布教活動の一大転機は北陸吉崎の4年間にある。この時47歳であったが、近江での布教活動は当時の社会不安状況もあって蓮如を支持する強烈なエネルギーとなっていた。弾圧をさける目的もあって北陸に本拠地を移したようだ。しかし北陸でも加賀一向一揆など難民の発生があり、近江に移した。その後北陸各地で土一揆、国一揆が頻繁に発生、1488年には富樫政親を敗死させたようだ。2011年のエジプト改革と同じような社会変動が室町時代に発生していた。蓮如の吉崎での宗教活動は重要な役目をはたした。

 蓮如の活動は地域の「請」を通じての浸透にあったようで、蓮如の「御文(おふみ)」を媒介としていた。「請」は地域を支えるネットワークとして存在していてこの組織をうまく使ったようだ。

 今様に置き換えて考えてみると、エジプトの場合は「フェイスブック」が情報伝達の重要な役割を果たしたといわれている。

「請+御文」=「フェイスブック」といえる。

 蓮如が注目されるのは布教活動の現代性にあるのではないだろうか。

 今の国民の一種精神の退廃は現憲法で宗教を国是から排除していることが原因かも知れない。今に見る政治の貧困は社会不安をもたらすし、宗教がエネルギーを持つことになる。蓮如は社会革命家ではないが、結果的には布教を通じて不満をエネルギーに変えたわけで類まれな宗教家である。

 九州の薩摩藩や人𠮷藩の隠れ念仏は弾圧を逃れて普及した浄土真宗であるが、蓮如の活動は九州南端の地まで及んでいた。

渡辺崋山2011-02-09 11:49:15
 渡辺崋山(1793-1841)は江戸生まれである。父が三河の国田原藩の人であった。12歳のころから儒学を学ぶ。その後谷文晁、佐藤一斎らに学ぶ。42歳の時幕府下命の渥美郡入海開発に反対し、上申書を認められる。この時江戸知人の紹介により、農政学者豊の国日田の大蔵永常を雇った。大蔵はわずか4年間の指導であったが、それなりの成果はあったようだ。

 47歳のころ、幕政批判の罪で在所蟄居の判決をうけて、田原に護送された。48歳大蔵旧宅をあたえられるが自刃する。49歳であった。江戸幕府はほしい人材を失った。この頃の内外は変動のあらしがふきあれていた。天保大飢饉(1836)、大塩平八郎の乱(1837)、アメリカ船モリソン号、イギリス軍艦ローレイ号などの動きもあり、幕府はこの国の運営に自信をなくしていたようだ。

 崋山は書画をよくしたが、掲載の鷲見像は現在国宝となっているが、さすがにすばらしい。絵の中から殺気が発しられている。なんという緊張感があることか。崋山は画も書もすばらしい作品を残していて、存在が知的に巨大である。

 国家の運営には多くの情報と人材が必要である。崋山如き人を死なせてはいけない。江戸末期のこの時期多くの逸材を失っている。

 崋山の遺書には「不忠不孝渡辺登」とある。儒学は多くの日本人に大きな影響をあたえたようだ。

野上弥生子2011-01-31 11:31:15
 野上弥生子(1885-1985)は豊の国、臼杵の人である。臼杵はキリシタン大名大友宗麟が居城をかまえた地でもある。14歳の時上京しそれ以降東京、晩年は北軽井沢と東京での生活であった。100歳手前まで執筆活動をされているのでまれに見る長寿と文人として巨人である。代表作に、「海神丸」「真知子」「迷路」「秀吉と利休」「森」などがあり、 女性としては2番目に文化勲章を受け、臼杵市名誉市民の 第一号にも推薦された。夫の野上を通じて夏目漱石の指導を受け、漱石門下の文人とも交流があり、広い交流があって弥生子の文筆の基礎が出来たのであろう。

 華麗な人脈の中には、寺田寅彦、中勘助、高浜虚子、田村元などこの時代のそれぞれの分野を代表する知性との交流があったようだ。

 「一隅の記」は随筆を集めたものだが、この中に「海神丸」後日談の話として、遭難船の機関手から50年後に連絡があって会見したことなどが含まれている。小説海神丸は遭難船の中の人肉を食らう話であるが、テーマの選び方がなんと人間の知性の極限にせまるもので刺激的ではあるが、若い弥生子が書いたことに驚きを禁じ得ない。人並み外れた知性がなければこういう小説はかけない。管理人は不勉強で弥生子の小説はそれほど読んでないが「秀吉と利休」は人間の知性にせまる2人の葛藤を描いていて時代小説でありながらそうでない人間のあり方を問う小説となっている。

 同じ「一隅の記」に「一陰の樹」と題して軽井沢での吉田茂との会合は息子の関係での引き合わせであったが、その内容は何を話したか覚えていないという。恐らく知性の鐘がならない会話であったのか。山荘の離れの一室には安倍能成書「鬼女山房」扁額が掲げられていたという。

湯川秀樹2011-01-27 14:05:15
 湯川秀樹(1907-1981)は東京生まれだが京都の人である。1949年ノーベル物理学を受賞。朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学の基礎を創った人物である。ノーベル物理学の対象は中間子の存在を理論的に予言したことである。中間子は一つのクォークと一つの反クォークから構成される亜原子粒子である。標準模型ではハドロンの一種であり、今では中間子は16種以上発見されていて、今後も発見されていくであろうと言われている。この宇宙の起源の解明に素粒子の研究が不可欠であるが、ギリシャ神話の「ウロボロスの蛇」に例えて宇宙と素粒子のリンクを物理学者が論じている。

 さて、湯川が中間子の発想を得たのは残された日記から1934年10月9日、27歳の時であろうと言われている。湯川が育った教育環境に漢語の世界があったことがわかっているが、重要なキーかもしれない。

 湯川は68歳の時、三浦梅園の里を訪問した。湯川は梅園の存在を三枝博音の「三浦梅園の哲学」等で知っていたようであるが、梅園旧宅を訪問するまで玄語図の存在を知らなかったようである。湯川は玄語図を観て相当びっくりしたようで、その時の様子を案内した高橋さんが記録している。玄語図が掲載された「梅園全集上・下」をその後買い求めたとのことである。

 湯川は玄語図をみてなぜ驚いたのか。

 物質を構成する最小粒子が素粒子であるが、すべての粒子には反粒子が存在することがわかっていて、一部の粒子は反粒子と同じものがある。数多い素粒子を統一して理解するために、現在最も完成された素粒子の理論として「素粒子の標準模型」がある。標準模型では世代が3であり、相互作用の強い順に(強い、電磁、弱い、重力)とあるが、 しかし模型には重力がはいっていない。梅園の玄語図は平面的には円形で表現されているが実態は立体で理解する必要がある。梅園の「一一即一、一即一一」、反観合一の考えを3世代の表示で事象の反比を漢字で図中に示している。

 湯川がびっくりしたのは恐らく中間子の生成・消滅と梅園の 一一即一、一即一一の類似性にあったと考えられる。東洋哲学に根ざした陰陽の思想と一一の思想に素粒子の世界が透けて見えたのではないか。宇宙と万物の始まりを覗き観た点で湯川と梅園は同じであろう。図の反観合一の書は湯川が梅園旧宅を訪問した時に請われて揮毫したものである。

資料:「梅園学事始」不上図人。

このブログでの関連:20090625は2009年6月25日です。

参考:20090625 上田勉梅園詩集研究

  :20090722 玄語とは何?

  :20090727 宇宙図

  :20090923 習気

  :20091101 梅園さんの「疑団」

  :20100110 北林さんの玄語研究

  :20101007 クロスカップリング反応

  :20101007 セレンディピティー鈴木-宮浦カップリング反応

  :20101114 三浦安貞(みうらあんてい)さん

大蔵永常(おおくらながつね)2011-01-24 07:36:15
 大蔵永常(1768-1860)は豊後の国日田の人である。没後150年、日田市がシンポジュウムを昨年12月21日に開催、その後地元ギャラリーで「日田市先哲展 大蔵永常に学ぶ〜豊かなる農村に生涯をかけた農業ジャーナリスト〜」ガ今年2月6日まで開催されている。昨年のシンポに参加の折200人ぐらいの参加者があり、一応盛況ではあった。基調講演者の話の中に「弥生時代からつい最近にいたるまで本質的な農機具の技術革新はなかった」という内容の話があったが、新鮮な驚きがあった。国東市の弥生のむらでは安国寺遺跡から出土した農機具の展示があり、その事実が確かめられる。くわ・すきなど材質の変化はあるが形状はここ2000年以上変わっていないようだ。永常は農家の窮状を改善すべくハゼの栽培など副業の薦めと農具の改良に尽力した。

 永常は19歳の時以来、長崎、下関、讃岐、大阪、江戸、三河ー田原、岡崎、浜松、江戸と転地、現地指導・執筆を重ねて膨大な資料を出版している。地元では「農業ジャーナリスト」としての評価を与えている。

 永常はまれにみる長寿の人で66歳の時、請われて愛知県三河の国田原藩の農業指導者になっている。わずか4年であったので実績がはっきりしていないが、農業コンサルタントとして活躍したようだ。この時の家老が文人「渡辺崋山」である。崋山は49歳の時自害しているが、その場所は旧永常廷内の砂糖小屋であった。永常を崋山に紹介したのは江戸の宝井馬琴であろうと言われている。永常と崋山の縁があって日田市と田原市には交流があるようだ。人の縁は現代に生きている。

 永常の生涯をみると「農」を中心に大きく行動していることがわかる。同じ豊後の人三浦梅園さんは国東半島を出ず自然哲学の勉学一途であったのと好対照ではある。江戸のこの時代各界の人物が排出しているのは興味ふかい。永常が生まれた時、梅園は35歳であったので、2人の接点はないかも。(掲載の写真はシンポのポスターとシンポ当日の会場風景)。

ペトロカスイ岐部2011-01-16 10:27:15
 ペトロ・カスイがイエスズ会の司祭に叙階された時(1620.11.15)提出した書類は今でもローマのイエスズ会文書館に保管されている。そこには、

『1 私の名はペトロ・カスイ、父ロマノ岐部、母マリア波多の子、33歳。生まれは日本の豊後国浦辺。2 毎日聖母マリアへの祈り。3 入会の動機は、私の自由な決心。4 体は労苦に耐える。5 神への感謝。6 自分と同胞の霊魂を救うために活動したい。』という趣旨でラテン語で記載されているという。

 ペトロがキリストに目覚めたのはどういう経過があったのか。ペトロが生まれた日本の豊後国浦辺とは国東半島の東北部の海岸沿いにある岐部集落ではないかと思うが当時の人物の確定は出来ていない。父ロマノが活躍した当時の豊後国は大友宗麟が大名をつとめていた。宗麟がキリスト教と接したのはザビエルに関係があることは間違いない。宗麟が洗礼をうけたのは1578年で、9年後の1587年父ロマノが洗礼を受けていて、この年ペトロ・カスイが生まれている。宗麟もこの年に亡くなっていて、宗麟の生まれ変わりがペトロ・カスイともいえる。宗麟が活躍した時代、国東半島の岐部氏は浦辺水軍の一翼として大友に参加していたようだ。岐部一族は内陸指向ではなく海洋指向であったこともペトロ・カスイの気質に影響をあたえたのであろう。ペトロ岐部カスイのカスイは「活水」ではないかという。

 ペトロ・カスイは51歳(1639)の時、江戸で殉教したが、369年後、ペトロ岐部と187の殉教者は、2008年11月24日に長崎市で行われた列福式で福者に列せられた。 

 国東半島はカミサマ・ホトケサマ・キリストサマの里であることを重ねて記しておきたい。神仏キリスト習合の地である。

(写真はくにさき公園に最近設置されたペトロカスイを詠んだ歌碑)

許し給えへ殉教の師よ くさぐさの花 

植ゑしか知らぬ しもべわれを 田中春子

アーメン

このブログでの関連事項

○2009.07.06 「ペトロ岐部カスイと187人の殉教者」

○2009.09.19  「大友宗麟と義統」



田深谷2010-2011-01-01 09:30:15
 みなさにはお変わりありませんか。国東半島の2010年最後の日は写真のように雪景色になりました。国東半島は西瀬戸内海に東に向いて突き出た円形の半島ですが、日本海、瀬戸内、太平洋の気象が混在していて、しかも海に向かう方向が谷毎に違うために天候が複雑です。列島古来・新羅万象の神々と東洋の仏様が入り込み、習合し谷毎に文化を創っています。縄文・弥生からの変わらぬ原風景があちこちにそのまま残っています。国東半島に住む人間にこの自然のあり方が影響があるのは勿論ですが、この自然に合わせて人々は負けずに谷々にへばりついて生活しています。生活信条としては恐らく変わらぬことが伝統であり、遺産になっています。そういえば、学校校門の脇には「質実剛健」とあったのを思い出しました。まさにです。

 ここの管理人は半島回帰4年目で卯年生まれでもあり、今年は「国東半島を守る年」の新たな始まりにしたいと念じています。

 みなさまにとってもいい年であるように祈っています。

三浦安貞(みうらあんてい)さん2010-11-14 08:20:15
 『「三浦梅園」は「三浦安貞」に改めよう』という書名で狭間久さんが小冊子を発刊された。はしがきには「江戸時代に書かれた哲学書「玄語」の冒頭の著者名は「日本鎮西三浦晋安貞著」と明記されている。初めは何気なく見過ごしていたのだが、いま、私はこの署名に込められた著者の壮大な気宇と自信に圧倒される思いだ。古今東西の書物で、著者名に国籍を書き添えたものがあるだろうか、また本名と別名(筆名)を同時に書いたものがあるだろうか。寡聞にして私は知らない。」とある。全体56ページで、詳しく命名の由来が記載されている。関係者の間では、三浦梅園というのは正しくないと言われていたのは事実であるが梅園という名称が普及されていたこともあって、そのままになっていた。そこを正面から切り込みをいれたことになる。快挙と言ってよい。

 冊子の中で詳しく検証されているので、ここでの説明は省くが、まさに「三浦安貞」が正解であろうと思う。ここの管理人も異論はない。生誕300年に向けて正式名の普及をはかることが必要である。これまで梅園名を使った事例が多いので、それを否定するには当たらないと思う。今後三浦安貞さんの自然哲学を広く理解してもらうのは世界的に必要なことであるし、そのことに耐え得る日本の思想であると思う。ミスターアンテイミウラ。

(大分合同新聞社刊 平成22年11月12日)

食の甲子園全国大会で国東高校優勝!2010-11-13 09:53:15
食の甲子園inやまがた全国大会
趣旨:高校生を対象に、地域の生産者や料理人等と連携して、地元の食材や食文化を学び、新しい料理のアイデアを競うコンテストの全国大会を官民協働で開催いたしました。本大会は、日本の食材の豊かさや食文化の奥深さを学び、食育に取組む意識の醸成や生産者、料理人の交流を通した農産物等の利用拡大、地域の食文化を継承する料理店等の活性化、更には、次世代を担う若い世代の健全育成を図り、もって食育の推進及び日本型食生活等の普及促進を図ることが目的です。(2 )主催:食の甲子園inやまがた全国大会実行委員会
(おいしい山形の食と文化を考える会、山形県料理飲食業生活衛生同業組合、山形県食品産業協議会、 やまがた食育ネットワーク、山形県農業協同組合中央会、山形県、山形県教育委員会)(3 )後援:農林水産省、全国料理業生活衛生同業組合連合会(4 )大会の概要:
・決勝大会開催日  平成22年10月31日(日)・場所 学校法人山形学院 山形学院高等学校

国東高校が最優秀賞を獲得して初代王者の座に。全国37校から選ばれた8校が各校の逸品を披露。九州・沖縄ブロック代表で出場した国東高校はJRC(青少年赤十字)の42人が共同研究で開発した「地産地消・国東ゆめ弁当」で挑戦。シイタケ、天然ワカメ、カボス、くにさき姫だこなど栄養計算した県産品30食材を利用。郷土料理の「おらんだ」を盛り込んだ。器は別府の竹工芸と日田の小鹿田焼(おんたやき)を利用。プロの料理人に味付けや盛り付けを習い、別府大学で専門知識を習得。誰でも作れるよう低価格の予算に設定。

国東高校はがんばっている。先のロボット大会での入賞もあり、全国一とはめでたい。同窓のみなさん!くにさきん食べ物はうまいんでー。国東半島宣伝しちょくれー。たのむでー。
イメージ図は前後2回にわたり配布された公募用のチラシです。

田深谷のえびす様2010-10-24 20:21:15
 田深谷のえびす様の紹介をしたい。写真のようにかわいいえびす神社である。鳥居の銘には亨保3年(1718)とあり、それなりに古い。毎年12月10日には祭事を行っている。すでに292年続いている。えびす商店街の歴史でもある。

 えびす様は日本の神で七福神の一柱でもある。本来は漁業の神でクジラを意味するらしいが瀬戸内にクジラがきていたのか。 夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記し、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。

民間信仰として一般の民衆に広く知られるのが、えびす講における「えびす」である。古くはえびす講の日に日本各地では市が立ち、魚や根菜など(青物)が売られた。また1月10日を中心とする数日間におこなわれるえびす講を「十日えびす」と呼ぶらしいが田深谷では12月10日。

 鳥居の銘の書は杵築藩の 綾部絅斎(あやべけいさい、別名有終先生) である。三浦梅園の先生でもあった。杵築市誌によれば、 幼いときから父について学んだが、記憶力にすぐれ、十四、五歳のときすでに四書を講述するという俊童ぶりで、元禄七年(1694)、十九歳で中小姓祐筆となり、同十年には史官に登用された。

宝永五年( 1708)、松平重休が第三代藩主になり、彼は侍講として、京都に遊学を許され、北村篤所・伊藤東涯について学び、享保九年(1724)には、江戸で室鳩巣・服部南郭らに師事し、識見とその徳望は有名だった。

彼は四人の藩主に仕えたが、そのうちとくに松平重休の知遇を受けた。重休は年少ながらも学聞を好み、庶民安定の政策を重視したが、政務について意見を求めるなど、名君の名をのこしたのは、安正の進言によるところが多かったといわれている。

松平親純が藩主だった亨保十四年( 1729)には郡奉行に任じられ、同十六年( 1731)知行一〇〇石、扶持一五口を受けた。

しかし、その翌年は凶作で餓死者が相次ぎ、安正はこの救済に全力を傾けたが、上司と意見が対立して、同十八年(1733)ついに職を辞した。時に五十九歳であった。元文四年( 1739)親純は死没し親盈が藩主となり、安正は再び侍講に返り咲いた。七十歳以降はもっぱら自適の生活を楽しんだ。この間「家庭指南」・「夢中反求録」などの著作があるが、『梅圏全集』の下巻に収められている。とくに重休が世を去ってからは、和漢両様の「龍渓公行状録」の稿をまとめ、重休の遺徳を後世に伝えた。

寛延三年( 1730)9月19日、安正は75歳で病没し、法名を「惟木縄真寛忠居士。正寛寺の綾部家墓地に埋葬されている。

有終は優秀に通じるのか。当時の杵築藩は多くの人材を輩出している。どういう経緯で鳥居の銘の書名を頼んだのか不明だが、書体は明快で美しい。えびす様の向こう1軒両隣り2軒は商売繁盛のようで、夜でも明かりがある。

第87回大光寺文化講演会2010-10-20 09:30:15
2010年10月24日(日)9時30分
演題1 「世界 和 ひとつ」
講師 アントン 真理雄さん 立命館アジア太平洋大学職員
(通訳・翻訳)
演題2 「いい音楽 もっと出会いの場を」
講師 八坂 千景さん NPOデンク・パウデ代表
読解 杵築藩第一の学者 綾部有終の自筆「なには草」写本

講師 武多 成通

ソーシャルワーカーウイズミュージック2010-10-18 09:31:15
 音蔵の主、宮崎真也さんは社会福祉士(Social worker)の資格を早い時期に取得し、教職退職後、平成元年頃からボランティア活動を初めて、今年はほぼ20年目である。

1989年仲間5人とMSVなるチームを結成、一時は40人のメンバーにもなって求めに応じて演奏活動を行ってきたとのことである。
 国東市は4つの町が合併して現在の市域になったが、お隣の国見町、武蔵町それと国東町での活動が多かったようだ。各地区の小学校、老人クラブ、特別養老老人ホームなど「ボランティアサービスの会」の名前で200ヶ所、500回という記事が2000年頃にあるので、現在では1000回を越えているのではないだろうか。活動の場は姫島村、杵築市、別府市、豊後高田市など国東半島全域になった時期もあるようだ。平成14年2月には竹田津の大光寺、第35回目の出演記録もある。この寺での講演会は年6回、心の過疎にならないをテーマに開催されていて、「田深谷のくらし」でもたびたび紹介している。
 音蔵では月1回、「音楽ボランティアサービスの会」映画鑑賞会が開催されている。音楽をテーマにした名画が中心である。
 宮崎さんの多才な活動はここ20年続いているわけで、音楽を通じてのボランティア活動というユニークさがある。国家資格には社会福祉、精神保健福祉、介護福祉の3福祉士がある。人口高齢化と過疎化で介護福祉活動の機会が増加しているが、精神保健、社会関連の福祉活動も広がっているようだ。福祉関連の教育機関が多く若い人が就労する機会が増えているが、宮崎さんは38歳の頃学校に行き資格を取得したようだ。時代に先駆けて資格を取得しての社会活動には頭がさがる。田深谷が生んだ価値ある先輩である。益々お元気でがんばってほしい。

(写真はボランティア活動20年間の記録と月1回の映画鑑賞会の案内状)


音蔵(おとくら)2010-10-15 11:49:15
 田深谷・恵美須街通り会の「音のコレクションルーム」音蔵の紹介です。まずは名前から、昭和34年頃まで日本酒を製造していた福村酒造の銘柄が「嶺鷹(れいよう)」で、その酒蔵跡にあるのが「音のコレクションルーム=音蔵(おとぐら)」である。酒が変じて音になるというすばらしい展開である。この展開を図ったのが宮崎真也さんである。

 宮崎さんは昭和4年生まれで、御年81歳、元気である。管理人の恩師でもある。宮崎さんは「音」を中心にして幅広くボランティア活動をされているので、2回にわたってご紹介したい。

 「音のコレクションルーム」音蔵には世界各国の民俗楽器がところ狭しと大小およそ500点は展示されている。シルクロード沿い各地域、東南アジア・アフリカの弦楽器や南米の打楽器など豊富な内容で文字では紹介仕切れないので、見ての楽しみにしていただきたい。機会を作って是非ご覧頂きたい。事前連絡すれば先生が詳しく解説してくれるでしょう。今年の9月18-19日開催のくにさき古代祭り2010では、このなかの楽器が50点ほどが国東歴史文化資料館(弥生のムラ)に移動展示されていた。

 これらの楽器の収集はご自身が海外旅行の時買い求めたり、教え子達が海外赴任・旅行の際に発見したものを買い求めたようである。

 これでみると音楽と人間の生活は切って切り離せないないことがわかる。日本にも三味線、尺八、太鼓など多くの楽器がある。音を出すのは人間の手足・口でしかないので万国共通であるが楽器の形態は様々である。音が生まれた地域の特色が楽器に表れている。ここの管理人もシルクロードの国、トルファンでの弦楽器の演奏が今でも耳に残っている。が楽器の形状に記憶がない。そう言う意味でコレクションルームは貴重である。今では音はいろいろな記録方法があるが、100年前までは記録・保存の方法がなかったので、楽器を通じて音が伝わったことになる。ルームの中では世界の音が聞こえる。

 世界の音が集まった「音蔵」がこの田深谷・恵美須街通りにあるのはすばらしいことである。次回は宮崎真也さんの音ボランティア活動を紹介したい。

1989年ー劉暁波さんのノーベル平和賞2010-10-09 15:01:15
 1989年(1989 ねん)は、年始から1月7日までの7日間が昭和64年、以降の358日間が平成元年である。事実上、大戦が終結した年である。世界史的には、「近代」と「現代」の境の年でもある。事件など列挙してみよう(管理人の好みです)。

・昭和天皇崩御、年号が昭和から平成に。・美空ひばり最後のコンサート。「川の流れのように」。・鉄腕アトムの手塚治虫死去。・ソ連軍のアフガニスタン撤退。・中国北京の天安門事件。・ハンガリーが社会主義国から共和国に。・ベルリンの壁崩壊。・オウム真理教、坂本弁護士一家殺害事件。・チェコスロバキア共産党政権崩壊。・冷戦の終局宣言(マルタ会談)。・ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊・株価が38,915円の史上最高値。その後バブル景気崩壊へ。・ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞受賞。・洋画「7月4日に生まれて」・「エアーフロント協会」が発足。

 まだまだ多くの事象ありますが、今年のノーベル平和賞を受賞した中国・劉暁波さんの受賞対象の天安門事件の背景をさぐりたいために列挙したのです。
 本日9日の報道では、情報統制、外国テレビ放映中断し「劉暁波は中国の法律を犯して懲役刑を言い渡された罪人だ」と反発し「ノーベル平和賞は西側の利益のための政治的な道具に成り下がった」と非難。「この賞を評定し、操る人は、中国社会が政治的な相違が原因で終わりのない紛争に陥り、ソ連式の分裂に向かうことを願っている」と警戒感を示しているようです。また劉氏の妻の劉霞さん(49)が8日夜、公安当局に連れられ、劉氏が収監されている遼寧省錦州に向かった。とあります。
 1989年の事象を見ますと、世界史の上で歴史の特異点であることがわかります。21年目で改めて大きな転換期だったのです。決して分裂に向かうことを願っているのではないことは明白です。中国での天安門事件はまあいわば歴史の必然性があったとも言えるでしょうか。中国政府は早く歴史認識をあらためて国家の運営方向を変えることが必要でしょうか。人類の過去の歴史が教えてくれています。この年、アメリカのP・F・ドラッカーは「THE NEW REALITITIES(新しい現実)」を出版しています。中国国民はこの本も参考にして現実に立ち向かってほしい。日本国民も隣国である中国の混乱を願っているのではないのです。中国6000年の歴史の重みを大切にしてほしいと祈願しています。

1989年ー劉暁波さんのノーベル平和賞
セレンディピティ ー鈴木-宮浦カップリングの誕生2010-10-07 14:00:15
鈴木章さんの業績については北海道大学のホームページに詳しい解説記事が掲載されているのでご覧いただきたい。
<http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/costep/news/article/77/>
この記事の中に研究の経過が掲載されているが、重要な段階で鈴木・宮浦ご両名の研究がなされて 鈴木-宮浦カップリングと言われているらしい。1970年代の後半の時期だと。記事の抜粋になるが引用したい。
・強力な目的意識と創意工夫が生み出したもの
  研究業績のインパクト(影響度)をはかる指標の一つとして、論文の引用件数がありますが、1995年にまとめられた鈴木-宮浦カップリングの論文の引用は3600件を超え、年間数百件の割合で増え続けています。カップリング反応を行うための有機ホウ素の試薬も、生み出せる化合物の多様化にともない、実に数千種類が市販されており、それらを扱う専業のベンチャー企業が登場したりもしています。最初に反応が発見されてから30年余りたった現在でも、鈴木氏らの研究がいかに現代の有機化学を牽引しているかが、これでもおわかりになると思います。
化学反応の研究という世界は、様々な組み合わせをひたすら探索し続け、膨大な断片を組み合わせてパズルをつくるような印象があります。ある面では偶然性が大きく支配していますが、狙った反応を発見したり、引き起こすためには、強力な目的意識と、それまでの研究の歴史に自分なりのオリジナリティを加えていく創意工夫が不可欠です。鈴木-宮浦カップリングの発見は、まさにそうした姿勢の産物といえるでしょう。
科学研究などの分野で、思いも寄らぬ発見や創造に出くわすことを、「セレンディピティ」と呼びますが、鈴木氏は雑誌に寄せたコラムの中で、こう書いています。「このような発見や発明の機会は、研究者なら誰にでも出会うチャンスがあると思う。(中略)ただし、ここではっきりいえることは、ただ手をこまねいていただけでは、決してやってくることはない」。
鈴木氏は、自分の研究の功績について、しきりに「ラッキーだったから」と強調していますが、それは言葉通りの幸運の産物でないことは明らかでしょう。 
脱帽です!!!幸運は汗と涙と神のめぐみと・・・
(写真は今朝の北海道大学のホームページトップ、鈴木さん写真ありました。すばやい対応です。)

クロスカップリング反応2010-10-07 11:01:15
2人の日本人同時のノーベル賞受賞はめでたい。受賞対象の業績が社会に広く応用されていることの事実に改めてびっくりする。この分野の研究者が多い中での受賞はさらに価値あるものだろう。 カップリング反応 (coupling reaction) とは、2つの化学物質を選択的に結合させる反応のことで、特に、それぞれの物質が比較的大きな構造(ユニット)を持っているときに用いられることが多い。天然物の合成などで多用されているという。 今回の化学受賞は3人で、ヘック反応、根岸カップリング、鈴木カップリングの合成方法を確立した3人に授与された。リチャード・フレッド・ヘック(Richard Fred Heck )はアメリカのデラウエア大学名誉教授。2人の日本人は新聞報道などに詳しい。
 さて、ここで カップリング反応とは触媒(今回はパナジュウム)があって反応が成立するということである。 触媒反応(しょくばい、catalysis)とは、特定の化学反応の反応速度を速める物質で、自身は反応の前後で変化しないものをいう。また、反応によって消費されても、反応の完了と同時に再生し、変化していないように見えるものも触媒とされる。
今日では反応の種類に応じてたくさんの種類の触媒が開発されている。特に化学工業分野では欠くことができない。また、生物にとっては酵素が重要な触媒としてはたらいている。
 人間界にとって触媒とは何か。今回の受賞者の話の中で、まさしくアメリカの指導教授が根岸、鈴木さんの見事な触媒の役目を果たされている姿がわかる。この先生は1979年にノーベル化学賞を受賞した米パデュー大学のハーバート・ブラウン教授(1912~2004)で2人は同窓生。 ブラウン教授にはさらにノーベル触媒賞を差し上げねばならない。21世紀になってからの日本人のこの自然科学分野での受賞者は10人で、米国についで2位である。なんとすばらしいことであるか。政治・経済・文化の分野では欧州の各国には言葉の問題もあってかなわないが自然科学はダントツと言っていい。
 ここで、発想を変えて政治・経済・文化の分野で世界から評価をもらうためにはどうしたよいか。ここ17世紀以降の日本の歴史そのものが奇跡に近い。特に世界大戦後のここ65年間はミラクルである。ここが軍隊を持たない、持てない日本国が国際関係でカタリストになる資格がある。自然科学分野の実績をもとに世界平和のために貢献しなければならないだろう。何をしなければならないかは自明である。ズバリ!人材の育成である。まずは親がしっかりした自覚を持つことから始めよう。今に見る世相の混迷は恥ずかしい。ガラガラポンの見直しが必要である。わたしも、あなたも。そして世の中も。
参考:パデュー大学はインディアナ州立の総合大学であり、大学、及び大学院で計200以上の専攻科目が提供されている。工学分野での評価が高く、なかでも敷地内に大学運営の飛行場を有する航空宇宙工学で知られ、世界的で初めて航空工学を取り入れた大学でもある。また、これまで多くの宇宙飛行士も輩出しており、卒業生には人類史上初めて月面に着陸した宇宙飛行士、ニール・アームストロングもいる。(写真はパデュー大学のホームページトップのコピーで学長と根岸さんが掲載されているー大学の誇りは日本人の誇りー管理人注)
http://www.purdue.edu/
(2人の受賞に刺激されて記述)

国産ジェット機2010-10-02 17:04:15
 日本に地域航空を創るために、欧米に調査にいったのは1980年ごろか、4〜5回は調査を実施して、参加自治体の協力のもと1983年11月に「全国地域航空システム推進協議会」を発足させた。その時の国内航空需要は年間4000万人強であったが、大都市指向であったので、日本の空には小型機による航空ネットワークが必要との認識で、活動が始まった。今では日本に欠かせない航空ネットワークになったが、発足当時は特に航空会社系にそんなのいらないとの声が多かった記憶がある。この当時から100人程度の小型ジェット機がほしいという機運もあったような気がする。しかし現実には機体コストが高く商用には不向きとのことであった。欧米にはそれなりの市場が出来ていたのは不思議なことであった。2000年頃を過ぎる頃、機運を察して国産化の動きがあったが、開発費が高く、市場もなくて本格的な動きにならなかったが、2007年度に政府が資金援助の方針を出して生産段階に漕ぎ着けてて2011年度に初飛行する段階となっている。思えば航空機の国産化は50年ぶりである。先のYS-11開発メンバーの木村秀政先生も喜んでいるであろう。

1980年代の航空行政にネットワークとかシステムとかいう言葉がなかった時代から今に至っているわけで、LCCとかオープンスカイとかいう事態は思いも寄らない早い展開と言っていいだろう。講演などでこう変わるんだということを言っても信じてもらえなかった。この稿は奈良の友人が日本のモノつくりを元気つけるために書けとのことであった。日本は世界でも優秀なモノつくり大国の伝統があり、先端技術の航空機ずくりでいいものを創ってほしいものだ。あとに続け!日本ここにあり!(写真はMRJの壁紙より)。

パソコンの日2010-09-28 22:02:15
 1979年9月28日、PC-9801が発売されたのを記念して、28日は「パソコンの日」らしい。ラジオ番組で特集していました。先にここの管理人がパソコンとの付き合いを記述したが、FM-8が1981年、マックが1984年であったので、ほぼパソコン元年からお付き合いしたことになる。思えば長くもあり短かくもある。まさにパソーナルコンピューター(パソコン)はここ30年で世の中を変えてしまいました。

 管理人が好きな国東半島の巨人である三浦梅園さんは1750年頃、世界を理解する宇宙観を独自に着想して、後年「玄語」として発表しました。260年前のことです。この時の発想は陰陽(漢字は現代風で実際はいんようの古語)を中心にすえた条理学で、「反観合一」が基本となっている。数理的にはゼロイチの世界でパソコンの世界と一緒です。こういう言い方をすると哲人に怒られそうですが、発想の基本が同じです。パソコン30年、梅園さんが発想したのが260年前、すばらしいことです。梅園さんが電気パルス、オンオフを知っていれば、世界は200年は早く回転していたかもね。そのとき、江戸時代にはエレキがなかったのですから、パソコンの発明は当然無理ですね。

この日(パソコンの日)、梅園さんのことも知って貰いたい。

写真はこの日の管理人のパソコン風景です。特別公開です。facebook(genichiro kayashima),twitter(tabukatani)での交流も可能です。

モバケー&ガラケー2010-09-09 09:53:15
 モバケーとかガラケーとかいう言葉をご存じだろうか。管理人が推測するここの読者は恐らく知らない(失礼!)。まあ知っていても知らなくても関係ないことだが教育に関係する社会現象だと言うと関心を持たれるかも知れない。

 ガラパゴス諸島は南米エクアドルより西約900kmにあり、大小多くの島と岩礁からなる。現在、ガラパゴスの123の島に名前が付いている。最も北のダーウィン島と南のエスパニョーラ島の間は220km離れている。最大のイサベラ島は面積4640平方km、島内のウォルフ火山は海抜1707mの高さである。

5~10百万年前の火山活動で出来た諸島で、現在も火山活動が続いており、2009年4月にはフェルナンディナ島で噴火した。1978-2001年にはガラパゴス海洋保護区も含めた世界遺産に登録された。

チャールス・ダーウインが測量船に乗船し進化論の着想を得ることになった航海で訪れた島であることは有名である。イギリスに帰国後、生物の種とは当時信じられていたように不変な物ではなく、変化しうるのではないかと考えるようになった。そうです!この島の生物相は独自の進化をとげました。特異な生物相を持つこの島嶼のことを「・・・のガラパゴス」と呼ぶことがあります。

 モバケーとはモバイル・ケイタイ・ゲームの略語で携帯電話でゲームするサイト(モバゲータウン)があり、2000万人の若者が利用しているといいます。

 日本の携帯電話は技術が優秀でジャパン島の中で独自に進化して、機能満載のすぐれものが多くてその世界の頂点に達したと思われます。そうです!「携帯電話のガラパゴス」になったのです。モバケーに模して「ガラケー」と命名したのですから、うまいものです。

 さて、いろいろなところで「ガラパゴス現象」が見られますね。探して見るのもおもしろいかも知れません。特に肥大化した組織、例えば日本の誇る官僚組織などはこの病症があるかもね。また政党のあり方も同じ現象でしょうか。現実の世界の動き、経済状況の変化を忘れて党規約だからと言って代表選挙を実施するなどは最たるものです。世界の識者から見ると「鳩に豆鉄砲撃たれて、驚き桃の木山椒の木」。

 日本の教育界もしかり。言葉の短縮化、若い世代の携帯文化化、上げていくときりがありません。ガラケーはすでに始まっています。なぜガラケーなのか、次回掲載します。

つながりはSNS2010-08-28 08:16:15
 人はつながりを求めて行動するし、どこかで誰かとつながりがある。血縁、地縁、同級、同窓など数え切れない縁=ネットワークが存在する。今パソコンの世界ではこの縁をつくるためのソフト(=手段、方法)がたくさん存在していて、ものすごい勢いで増殖中である。そのほとんどが無料で、登録されているのは400を越えている。最大の利用者(ユーザー)を持つのは5億人といわれるフェイスブック(facebook)で、ツイッター(twitter)が1.2億人で2位らしい。コンピュータの世界ではこれらのつながりを社会的ネットワークサービス( Social Network Service, SNS)という。

 人は何人を介してつながっているのか。結論を先にいうと6〜7人でつながるという。九州にいるここの管理人が北海道の友人あての手紙を眼の前の通行人に手紙を託したとすると、同じように次々と連携していくと平均的には6人目でその友人に行き当る、すなわち手紙が届くという。これをスモールネットワークといい、研究の対象となっている。「6次の隔たり」ともいう。数学的には1人が23人の重複しない友人があるとすると23の6階乗で日本の人口総数をうわまわることになり、数字的にはあり得る。実際には3〜4人でつながる場合もある。

 このスモールネットワークは複雑系科学の重要なテーマである。人はどうして繋がるのか。繋がり(縁、絆など)はどうして出来るのか。意外な単純な法則で成り立っているのではないか。複雑に見える自然界は意外に単純な法則で成りやっていることが分かりかけている。同じように人間界も単純な法則が存在しているのではないか。

 現在の無縁社会を解決する方法が見つかるかもしれない。人間性に関する知識の総動員が必要である。ぜひここの読者も法則探しに参加してください。

新選組とコンコルド2010-08-16 07:47:15
木村 秀政(きむら ひでまさ)さんは1904年、青森県で生まれ、日本の航空機製造に重要な役割をされたが、1986年、82歳で亡くなれた。1980年前後先生が70歳台の時に10年ぐらいお付き合いいただいた。その時期の思い出を書いてみたい。

 先生のエッセイなどをまとめられた「新選組とコンコルド」を寄贈されたが、ヨーロッパの航空発祥の地などを訪ねた旅行記などもあり、楽しい本となっている。この本のタイトルは如何にも奇妙である。丁度このころ、管理人は「airfront」の考え方が重要であることを説いていた。すなわち空港と地域が一体となって地域振興をはかるべきとの説である。木村さんはエアーフロントに大変興味をしめされて、ゆっくり聴きたいとの要望であったのでお訪ねして説明した時にこの本をいただいた。

 コンコルド機はフランス主導で開発が進められて、マッハ2.0の超高速の旅客機で就航するまでにいたったが、時代の要請にあわずあえなく挫折したが、開発当時の技術者のひたむきな研究と執念は見事なものであった。

 新選組はご存じのように江戸から明治期の転換期に時代に抗して幕藩体制を守ろうとした若き武士(サムライ)達で、ひたむきな心情で行動したことで国民の人気がたかい。日本の若いサッカー選手をサムライと称して応援していることも記憶にあたらしい。

 木村さんは新選組の若いサムライとコンコルド開発に翔る若き技術者のひたむきさが共通していて、好きであると。サムライとコンコルドとも今でも人気ものである。フランス、コンコルドの試作機の工場見学の時にひらめいたらしい(1969年頃)。

 木村さんは東大時代に航研機の設計者の1人であり、この飛行機は長距離飛行世界記録を達成した。また、国産発の旅客機YS-11開発の5人のサムライのメンバーでもあった。YS-11は日本唯一の国産旅客機。短い滑走路でも発着できる小型旅客機として1962年に初飛行。全部で182機製造。JACの主力機などとして長年活躍してきたが、2006年を最後に引退した。

 関係者の情熱とひたむきな努力に関わらず物事が成就出来ないことは多いがその軌跡は残ることが多いのも事実である。

「 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。・・・ あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。」

 何故か鴨長明の方丈記を思いだした。
暑さのせいか?

木村さんは、特に若い人のひたむきな情熱が重要で、まわりの人が応援することの大切さを言いたかったのではないか。もって銘すべきことである。

第86回 大光寺文化講演会2010-08-07 08:01:15

円仁さんの軌跡2010-07-21 06:09:15
円仁さんはこの田深谷の6月25日に記載した無着禅師の稿にもふれたが、次のような経過で中国での軌跡が明らかにされた。研究会での発表、twitterなどでもとりあげられていて、思いも寄らぬ賑やかさではある。この記事のソースはすべてインターネット上にあり。情報の出所は記載してないが、提供者に感謝します。それにしても雲情報はすごい!なんでもあり!
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 円仁(794-864)は下野国都賀郡の人。 円仁(えんにん、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。出自は壬生氏。性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
 当時の長安の情勢は唐の衰退等も相まって騒然としていた。治安も悪化。不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが、(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)。夜にも関わらず、多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人達が主であった。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った。この途中、河南省登封市の法王寺で、お堂を囲む塀にはめ込まれていた石版に「円仁」「大唐会昌五年」の文字が刻まれているのが発見され、彼の足跡を示す貴重な発見となった(朝日新聞2010年7月9日夕刊)。廃仏の嵐の中で寺の仏舎利を地中に隠すにあたり、円仁がその間の事情を記す文章を書いたものと思われる。縦44センチ、横62センチの石板には、845年、時の皇帝による仏教弾圧「会昌の廃仏」の際、寺宝の仏舎利を守ろうと地中に埋めたことが記され、文末に「円仁」の文字が刻まれている。
 円仁は壬生町の壬生寺が生誕地、栃木市の大慈寺で少年期を過ごした、などの伝承がある。今年1月に法王寺の僧が石板の調査のため大慈寺を訪れ、大慈寺からそれを知らされた酒寄教授らが今月初め法王寺を訪れ、調査した。円仁が残した旅行記「入唐求法巡礼行記」によると、円仁は廃仏政策で長安を追われ、その年6月1日に洛陽市に至り、同9日に鄭州市に到着したとある。法王寺のある登封は洛陽と鄭州の間にあり、酒寄教授らは石板の存在は巡礼行記に記された足取りと矛盾しないと判断したようだ。酒寄教授による現地調査報告会が、16日午後4時半から東京都渋谷区の国学院大で開かれた。写真はその時の資料の1部。
—【釈文】
釈迦舎利蔵誌
漢西来釈迦東肇仏
壇嵩之南麓法王子
立矣随仁寿間帝勅
建浮屠譴使安仏真
身舎利於内殊因移
匿地宮函密之蓋護
宝非不恭也法門聖
物世遠疑失誠恐鐫
石以記祈聖門永輝
円仁 天如
大唐会昌五年

【書き下し文】
漢に西より来る釈迦、東に肇めて、仏壇を嵩の南麓、法王寺に立つ。
隋の仁寿の間、帝、勅して浮屠を建て、使いを遣わして仏の真舎利を内に安んぜしむ。
殊に移すに因りて地宮の函に匿してこれを密にす。
蓋し宝を護るは不恭に非ざるなり。
法門の聖物、世世遠く失わんことを疑う。
誠に恐れみて石に鐫りて以て記し、聖文の永く輝かんことを祈る。
円仁 天如
大唐会昌五年
—
 この石碑は、洛陽と鄭州の中間地点にある、法王寺の壁(天王殿東側の瑠璃門東壁の上段左から二番目)に埋め込まれていたもの。法王寺の位置は、嵩山の山中。分かりやすく言えば、少林寺の近くである。
 昔から壁に埋め込まれていたのではなく、近年(1990年代)に法王寺を復興する際に、装飾としてうめこまれたそうだ。中国の観光地で法帖なんかが埋め込まれている壁と同じような感じだろう。どういう経緯でここに埋め込まれたかはよく分からないが、2000年ごろ「法王寺ニ号塔地宮発掘」が行われたので、このとき発見された可能性が高い。
 この碑の円仁が、本当に慈覚大師かどうかだが、『入唐求法巡礼行記』には6月1日(洛陽)から6月9日(鄭州到着)の間の記事がない。石碑にも会昌五年とあるだけで、月日は書かれていない。円仁が、法王寺に行った確実な証拠はないのだが、洛陽から鄭州は当時一般的なルートだと160km程度で、8日はかからず、ルートをまげて法王寺に行ったと考えるのに不都合はない。

この碑は『入唐求法巡礼行記』の空白を埋める資料となるということである。円仁が遣唐使として入唐したのは承和5年(838年)、なんと45歳のときである。当時の遣唐使は、問題が多発していた。あまりに事故が多かったのである。円仁が乗った回(第17次)では遣唐副使の小野篁が病気を言い訳に乗船を拒否。これは前代未聞のことだった。この回を最後に、遣唐使は廃止された。つまり、円仁は最後の遣唐使でもある。唐までの船旅は、相次ぐ遭難により遣唐使六百数十人のうち40%が海の藻屑となるというすさまじい航海だった。航海の様子は円仁自身の『入唐求法巡礼行記』に詳しく描かれているが、あまりにすさまじいので、読んでもイメージがわかない。とにかく、円仁の乗った船は唐に到着したときはすでに船を体をなしていなかったらしい。入唐後、円仁は師匠、最澄の学んだ天台山に行くことを希望する。しかし、短期(1・2年)の留学生(正確には還学生という)だったので、いくら待っても朝廷の許可がおりなかった。そこで、円仁は脱走することを決意する。今風にいえば不法滞在のまま旅をすることにしたのである。しかし、なにを勘違いしたか、円仁は北へ向かってしまった。天台山は現在で言う浙江省。全く逆である。赤山(山東省威海市)に着いて、五台山の方が近いという話を聞き、天台山を諦めもう一つの聖地、五台山(山西省)に向かう。五台山に滞在した後、今度は当時の都長安に向かう。そこで5年ほど滞在したときに、武宗による会昌の廃仏にあい、強制的に還俗させられ、帰国することになる。ほとんど強制送還みたいなもんだが、円仁は帰国できることを喜んだ。そして日本に帰ってきたのは、入唐から約10年後。その間、円仁は詳細に日記を書き続けた。それが『入唐求法巡礼行記』である。それは当時の遣唐使や唐の様子を知る一級資料となっている。
 円仁の業績については多々あるが、実はこの人物の出生地ならびに若き頃の修行地が、栃木市の近郊にあり、史跡としても保存されている。一般には出生地は栃木県下都賀郡壬生町の壬生寺とされている。9歳の時に同じく下都賀郡岩舟町の大慈寺で修行、15歳の時に比叡山に入り、最澄に師事しその才覚を認められた。壬生寺も大慈寺も私の所からすぐであり何回か訪れたこともある。ところが岩舟町の下津原というところに、慈覚大師生誕の地があり、産湯の井や社などが祀られ、いわば生誕の地を争う形になっている。岩舟説によれば、円仁誕生にまつわる最古の書物と言われる順徳天皇撰「八雲御抄」に、慈覚大師の誕生するところなりとして「みかほの関」と記されているとある。みかほの関とは三鴨の関であり、三鴨の地名は現存する。下津原はみかも山の山麓でもある。一方の壬生寺には、天台の寺であるとともに大師堂の存在があげられているが、これは後世(1686年)の建立であるという。9歳から同じ岩舟町内の大慈寺での修行に入ったことを考えると、岩舟説に根拠があるように思える。現在両町では、それぞれ大師生誕の地を称える行事やイベントなども行われているが決して対立している状況ではない。偉大な人物にかかわる地として共存関係にあるようにも見える。 円仁を示すものとすれば、中国で遣唐使の足跡を示す文献以外の史料が確認されるのは、2004年に発見された井真成の墓誌に次ぎ2例目である。

大光寺文化講演会たより(86)2010-07-15 12:16:15

集いーくにさき古代祭り20102010-07-01 21:16:15
 この祭りは3回目で、9月中旬に開催される。弥生のムラのすべてをみせるという趣旨で講座などを含めて公開される。今回はじめてホームページが公開されたので是非見て頂きたい。<http://www.kodaisai.jp>。詳細はhpに紹介されているが、おおよそはつぎのようなことである。
2010.9.18 (土) 前夜祭 13:00-13:20&2010.9.19 (日) 9:00-1700
伝統芸能【きくなが音頭】、伝統芸能【沖縄エイサ-、伝統芸能【豊後万歳伝統芸能【まてつき唄】、THE HEATERSTEX & the Sun Flower Seed、EMI SHIRASAKI (上々颱風)、MATE POWER (ドイツ)、PASANG DOLAMA & TOSHI KUGA、EKD等のアーティストの出演があり、多彩である。野外は音楽祭となっていて賑やかである。
 写真は2009年参加いただいた熊本市近郊の城南町出身でインドで旅人からディジュリドゥを 譲り受け、その神秘的な音色に魅せられる。その後地元熊本をはじめ、各地で精力的に演奏活動を開始。修験の地、奈良県 天河神社での奉納演奏や、愛媛県今治市での子ども達への ディジュリドゥ教室など様々な経験を積む。 2007年には、さらなる演奏技術の向上を求め、単身オーストラリアへ 渡る。路上ライブを中心に活動し、地元のFMラジオ番組への出演も果たす。また、ディジュリドゥの故郷である先住民族アボリジニとの交流も経験。伝統と新しさを兼ね備えた奏者に成長し、08年11月に帰国。帰国初日よりライブ活動を開始。 まさに「火の国」出身らしい情熱を持ったディジュ奏者である。2009年には国東で演奏というわけです。 演奏を聴いていてなんか心の奥に響く音でありました。南アメリカのサッカーで盛んに聞かされたブブゼラ(vuvuzela)よりは音が低く、力つよい。アボリジニに負けない弥生のムラにふさわしい演奏でした。今年もディジュリドゥにまけない古代音を聴きたいものである。

無着名について2010-06-25 18:40:15
 「 泉福寺住職の無着名についてご教授頂きたい。」との連絡をいただいた。この「田深谷のくらし」を読んでいただきありがたい。興福寺パンフレットの説明文には『 奈良興福寺の北円堂に安置されている鎌倉時代の運慶作で国宝の無着と世親の両菩薩立像である。無着と世親は兄弟で興福寺など法相宗の基礎的理論である唯識思想を大成した4~5世紀のインドの高僧。唯識とは「世界は心よりなる」と言う主観的観念論哲学で仏教の他の宗派にも大きな影響を与えた。

像については、両像ともに桂材の寄木造り、高さ:無着194.7cm,世親191.6cm。これら立像は非常に親しみを感じるのは、厳しい修行を乗り越えた人だけが持つ精神の表現に成功したゆえんであろう。大地を強く踏んで堂々として立つ体のどこをとらえても品格をそなえ写実に徹している。』 とのである。

国重要文化財 泉福寺閉山堂附開山無箸和尚墓塔の記事(苦労してまとめた国東指定文化財の中にある)では「 泉福寺は永和元年(1375)田原氏能の母、無伝仁公の発願で、無著妙融補師によって開山。開山堂は禅宗の名僧無着妙融の墓とその覆堂である。最初、応永元年(1394)に建立されたが大破したので寛永13年(1636)に古材も用いて縮小再建したのが現在の堂である。正面奥の仏壇下に、開山墓塔を納める。石造無縫塔である。・・・ここでは禅宗の名僧無着妙融となっていて第1世、現代の成恭さんは第469世ということらしい。ある雑誌の対談で『私が生まれた山形の澤泉(たくせん)寺は、ここ泉福寺を開いた無着妙融(みょうゆう)禅師の法脈を継ぐ寺でね。泉福寺は曹洞宗の九州の総本山だった所で住職は世襲じゃない。無着の系統から誰か出せという時に、学校辞めてフリーだろうからお前行けと。だから仕方なしに来たんです、5年前。泣きの涙で(笑い)。』そうです世襲じゃないので、有能な人材をあててきたらしい。指定文化財に記録が残されているので、確かなことでしょう。インド無着菩薩は中国そして日本で法相宗として存在していて薬師寺などが教義を守っている。弥勒菩薩[みろくぼさつ]、無着菩薩[むちゃくぼさつ]、世親菩薩[せしんぼさつ]によって大成され、護法菩薩[ごほうぼさつ]等によって発展した唯識教学です。紀元七世紀の初め、玄奘三蔵が印度で17年の間仏教教義の修得に勤められました。その間特に唯識教義の研鑚に勤められました。しかし帰朝後は翻訳に全勢力をそそがれ、教義の発揮は門下第一の逸足といわれた慈恩大師[じおんだいし]に託されました。大師は師より伝授の法統を巧みに整理し法相宗を開創されました。とある。その後、道元曹洞宗の無着妙融(第1世)に引き継がれて今日に至っているのでしょう。無着のサンスクリット語はアサンガというが5〜14世紀の無着名の継承は手元では不明だが、仏教の始祖に近い名であり、大切に継承されたと思われる。チベットの寺院には無着菩薩があるようだ。なお法相宗は国東半島に多い天台宗よりは140年ぐらい古くから始まった宗派である。

 この国東半島にインド仏教につながる泉福寺の資産があるとはすばらしい。この遺産をなんとか守ることが必要である。(写真は興導寺の無着像)。

忸怩戒(じくじかい)2010-06-18 06:57:15
 無着成恭(むちゃくせいきょう)さんは 大分県国東町泉福寺住職である。田深谷の上流地域でもある。無着さんはあらためて紹介の必要がない有名人でるが、泉福寺住職になる経緯みたいなことがかいている文章をみつけたのでご披露したい。いずれもご本人の本からの抜粋である。最初のあたまのてっぺんを削り取る話は多少の説明がいると思う。泉福寺奥の高良の山斜面が採石場となっていて頂上近くに及んでいることを言っているのではないかと思う(写真の山の裏側が採石場で表からはわからない)。以下は管理人のことわりなしの勝手な抜粋であることおことわりしておきます。

 大型機械が山へよじのぽり、そのてっぺんから崩しているのを見ると、ふっと思うことがある。私たちは眠らされていたのではないか。眠らされている間に人間としての脳味噌を削りとられ、ほじくり返され、その穴の中へコンクリートをつめこまれてしまっているのではないか。

私は昭和十九年五月、海兵を受験した。父に内緒で願書を出したのである。ところがその受験票が私の留守中に配達されたのである。

父はそれを指さして「坊主のせがれがなんで人殺しの方法を教える学校を受験するのか」と言った。昭和十九年のことである。そういうことは言えない空気がいっぱいのときである。父はさらに言った。「戦争に聖戦なんてないんだ。戦争はすべて悪だ」。さらに「日本軍が戦争している支那だって、サイゴンだってシヤムだって仏教国だ。仏教は国家より大きい。仏法は王法より正しい」と。その一言が私の生き方を決定した。

あとがき

この本は、もっとゆっくり、よく考えてつくるつもりだった。ところが曹洞宗大本山からの特命で突然、大分国東半島の泉福寺へ行くことになった。

泉福寺は永和元年(一三七五)無着妙融禅師によって閉山された名刺である。江戸時代は曹洞宗の九州総本山と言われ数多の僧侶を打出した道場であった。「お前は無着禅師の法孫だから、そこへ行って寺を守れ」というわげである。

ダメだ!といくらおことわりしてもダメで、とうとう押し切られてしまった。

それで、あわててこの本をつくり、自己紹介の一つにしようと思ったのである。

ひらきなおって「日本人は誰も彼も官軍の子孫のような顔をしている。そのことが日本をダメにしているのではないか」とか、「日本人の批判精神を健全なものに育てるためにも賊軍からの視点が大切なのではないか」などと思ったりした。

以上、じくじたる思いがいっぱいあって、それで「忸怩戒』とした。自句自解ではない。

合掌 平成十六年八月十五日 無着成恭


ハートプロジェクト2010-06-25 08:00:00
 写真はアスト国東の展示室「介護百人一首2009」パネル展の状況であるが、100首にはそれぞれ味わいがある。詠む人は圧倒的に介護の女性が多い。わが夫(つま)の・・・と詠む介護人の気持ちが切々と伝わってくる。

 こういう展示を見ていると公共放送NHKも必要かなと思うが、韓国ドラマがなんと多いことか。日韓親善のためにはいいことではあるが、多すぎないか。「NHKハートプロジェクト」とはよく言ったものだが、ここら辺にもハートの気遣いがほしい。この「NHKハートプロジェクト」のホームページはよく解説されていることを付記する。

 番組の説明より・・・

 福祉キャンペーン「NHKハートプロジェクト」の一環として、福祉ネットワークスペシャル「NHK介護百人一首」を実施します。平成16年7月より、NHK教育テレビ「福祉ネットワーク」で、介護の日々を詠んだ介護短歌を紹介してきました。番組には「歌を詠むことで気持ちが癒された」、「悩んでいたのは自分だけでないことに気づかされた」といった声が数多く寄せられてきました。こうした反響に応え、昨年あらためて介護する人、介護される人から介護にかかわる短歌を募集したところ、介護から生まれた“人を思う心”が詠まれた短歌が多数寄せられました。

今年も、介護する人、介護される人、介護にかかわるみなさんから、素直な気持ちを詠んだ短歌を広く募集し、「NHK介護百人一首」として選定します。

国東半島世界遺産暫定入りも遠い!2010-06-15 10:19:15
文化審議会特別委員会は14日、「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」(新潟県)と世界最大級の前方後円墳「大山古墳(伝仁徳天皇陵)」を含む「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)の2件を、世界文化遺産の国内候補として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の暫定リストに掲載することを了承した。との報道あり。さて「宇佐・国東」どうなっている?

A.我が国の暫定一覧表記載資産は(11件+今回2件)で13件。

「古都鎌倉の寺院・神社ほか」(神奈川県、平成4年)、
「彦根城」(滋賀県、平成4年)、
「平泉の文化遺産」(岩手県、平成13年)、
「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県、平成19年)、
「富士山」(静岡県・山梨県、平成19年)、
「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(奈良県、平成19年)、
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県、平成19年)、
「国立西洋美術館本館」(東京都、平成 19年)、
「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道・青森県・岩手県・秋田県、平成21年)、
「九州・山口の近代化産業遺産群」(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県・山口県、平成21年)、
「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県、平成21年)、

今回追加2件

「 百舌鳥・古市古墳群-仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群-」(大阪府 堺市・羽曳野市・藤井寺市、平成22年)、

「 金と銀の島、佐渡-鉱山とその文化-」(新潟県、 平成22年)

B.地方公共団体からの提案書(平成19年度新規)のもの13件、 百舌鳥・古市古墳群が暫定入りで残12件

C.地方公共団体からの提案書(平成18年度継続審議・再提案)のもの18件、 金と銀の島、佐渡が暫定入りで残17件

29件が提案されていて、『宇佐・国東-「神仏習合」の原風景』はCの中にあり。暫定入りもきびしい。写真は追加資料提出時の抜粋。テーマの神仏習合の原風景は間違いではないが登録のテーマとして適当かどうか疑わしい。「田染荘(たしぶのしょう)小崎の農村景観」が国の重要文化的景観に答申されたように、円形の国東半島の自然文化的景観そのものが基本テーマになるべきでないのか。平成18年度当時から疑問に思い史談会などで発表したが、以外と東国東半島住人はひややかであったのはなぜか。先の提案では宇佐神宮が表に出てしまい、神仏習合の原風景といわれてもピンとこないのが実感であろう。

 今一度提出資料は見直す必要がある。神仏習合は見るものではない、感じて観るもの。日本に深刻な宗教戦争がなかったのは神仏習合がうまく行ったからで、世界に誇れる世界遺産である。国東半島はその原点である。

全日本邪馬台国論争大会2010-06-01 10:41:15
 第6回目のようだがアマチュアの歴史研究者が発表する「全日本邪馬台国論争大会」が、宇佐市の宇佐神宮で開催された。ここの管理人を含めて約200人以上が参加。発表したのは5人であったが、応募は17人でにぎやかである。5月30日(日)10:00-15:00。

 全国に200ぐらいの邪馬台国候補地があるが、九州説と近畿説が大半である。 

 5人の発表は福岡県飯塚説、福岡県甘木説、佐賀平野説、福岡県山門説、福岡県久留米説が次々と披露された。それぞれがユニークなご意見でした。邪馬台国はどこにあったのかの議論が再びさかんになっているが、近畿説が箸墓古墳の解明報道などにより有力になっているので、九州説は健在であることをアピールしたいことが本音のようだ。この「田深谷のくらし」で曹操の墓出土品の文字などを以前に書いているが、魏志倭人伝の記述しかなく、日本側に文字がなく倭国の記載がないので、倭国所在論の言及は基本的に無理だがここがおもしろい。魏志倭人伝からの地名考、方向探索、言葉由来、銅鏡探しが中心の議論が多い。5人の論者が持論を発表し、これをめぐって会場と、あるいは論者同土が熱い議論。さらに「邪馬台国宇佐説」を漫画化する原作者と漫画家が紹介されるなど、話題豊富な大会となったいた。談話だと「邪馬台国は宇佐で卑弥呼の墓はストーンサークル(環状列石)がある豊後高田市の猪群山」というストーリーらしいが、面白そうだ。 猪群山(いのくまやま)は国東半島の西側にある山で自然石を利用した列石があり、好事家に人気がある。漫画に期待したい。国東半島が古事記の舞台であると固く信じていて、古事記の解読に熱心な半島人もいる。国東半島も少しは賑やかになりそうだ。

愛 燦々(あいさんさん)2010-05-15 09:34:15
 安心院は国東半島の付け根にある町で、現在は宇佐市の一部であるが石橋、鏝絵(こてえ)、ワインなどで知られた山間部のまちである。大分空港から車で1時間以内で行くことが出来る。今回友人の案内で安心院にある個人の庭園「逸見亭」を見学する機会があった。個人の庭にしては広すぎる山の斜面いっぱいに見事な庭木の集合が不思議な世界を創っていた。庭木は丸く削られて、宇宙に浮かぶ生命の単体のようで忘れられない空間を創っていた。この体験は実際に観るしかないが、辞するとき門の名称は「愛燦燦」となっていた。
 美空ひばりの歌声が頭のなかで聞こえてきたような気がしたのは気のせいか。
 歌詞では、
雨 潸々(サンサン)と この身に落ちて・・・・・、
風 散々(サンサン)と この身に荒れて・・・・・、
と続いて、
愛 燦々(サンサン)と この身に降って
心秘そかな嬉し涙を 流したりして
人はかわいい かわいいものですね
ああ 過去達は 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね
ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む
人生って 嬉しいものですね。
 この庭園空間は、雨・風・木・土などの自然と人間の生き様のコラボレーションと言っていいのでしょうか。なにも難しく言う必要はないのですが、ここのアーティストは言葉に言えない無心の気持ちで手入れに精を出しているのでしょう。まいりました。見事でした。


山は富士、海は瀬戸内、湯は別府2010-05-06 18:19:15
 別府観光の生みの親油屋熊八

別府温泉は源泉数、湧出量とも日本一で観光客は1000万人を越える。そのもとを作ったのが今回の主人公である。最近は別府駅前に銅像がたったり、別府を日本有数の温泉地に育てた実業家として注目されている。

愛媛県宇和島市の生まれで、27歳で宇和島町議に当選、30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。35歳の時にアメリカに渡り放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年滞在。熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼って別府に移ったのが別府との付き合いの始まりである。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」は熊八が作ったスローガンでのぼりを富士山山頂にたてて宣伝活動を行いました。上の写真はその時の写真です。別府港にさんばしを作る運動をしたり、観光バスを通して日本で始めてのバスガイドを乗せたりしました。地獄めぐりも熊八のアイデアの一つだそうです。なかなかのアイデアマンで実行力のある人だったようですね。富士山にのぼりの精神は引き継がれて、別府の有志は中国、万里の長城でのアドバルーンの掲揚とつながっています。3本の温泉マークの記号も熊八の発案と言われていますがこれには異論があるようです。熊八が創立した亀の井ホテル内に創業者を称えて写真などが多く展示されている。掲載写真はその一枚である。熊八がクリスチャンであり、ホテル内で飲酒することを禁じた時期もあったらしい。アメリカ仕込みのおもてなし(ホスピタリティ)精神が彼の行動の原点であるようだ。別府駅前の銅像の脇には下記のようにある。国際観光文化都市別府にふさわしい言葉である。

Don’t forget to show hospitality to strangers.

古代宇宙に謎の巨大天体ー卑弥呼2010-05-05 09:15:15
カーネギー研究所とすばる望遠鏡のサイトを覗いていましたら、以下に紹介する記事を見つけました。卑弥呼と命名したことで目にとまったのでしょうが、宇宙は謎だらけです。ビッグバン宇宙論が正しいのかどうかの議論になっていくのではないでしょうか。最初にビッグバン宇宙論ありきではないということです。ビッグバンはなかった!おー。
 すばる望遠鏡の公式ニュース(20090422.)抜粋記事。
— 多数の望遠鏡を使った観測により、ビッグバンから約8億年後の生まれて間もない宇宙で、不思議な巨大天体が発見されました。これは、ライマンアルファ・ブローブという天体に分類され、その巨大なガス雲は将来銀河になる可能性を秘めていますが、本当はどうなのか分かっていません。研究者たちは、この古代宇宙でみつかった謎の巨大天体をヒミコと名付けました。これは弥生時代後期における倭国の女王、卑弥呼に由来しています。ヒミコは5万5千光年にも広がり、宇宙初期の時代の天体としては記録的な大きさで、現在の天の川銀河の円盤の半径に匹敵します。
古代宇宙でひときわ目立ちながらも、謎めいたこの天体は、日本のすばる望遠鏡の観測域で発見されました。
 「遠くの宇宙を観測すれば昔の宇宙を見ることができます。」カーネギー研究所で、日米英の研究者からなる国際研究チームを率いた大内 正己 特別研究員が説明を始めました。「この発見にはたいへん驚いています。宇宙の歴史の最初の段階に、こんなに巨大な天体があったとは想像していませんでした。現在信じられているビッグバン宇宙論では、小さな天体が最初に作られ、それらが合体集合を繰り返して大きな天体ができると考えられています。ビッグバンの約8億年後、つまり現在の宇宙年齢のたった6%の時代に、ヒミコは現在の平均的な銀河と同じくらいの大きさになっていたのです。

「心の過疎にはならない」大光寺文化講演会2010-04-25 16:47:15
大光寺文化講演会は今回で84回を数える。80名の参加があったが多いときには200名を越える。「心の過疎にはならない」をテーマに幅広い講師をそろえての講演会である。今回は4月25日(日)9時30分開始で12時近くまでの講演であった。その後は恒例のお接待「春の山菜寿司」がきれいな庭を見ながら振る舞われた。申し分なし。

— 

『伝えてかますか、自分の気持ち』〜大分県こころの健康調査から〜と題して講師は影山隆之(精神看護学)さん、略歴は次のとおりである。

東京大学で精神衛生学を修め精神科医療、カウンセラー、いのちの電話相談など経験の後、ストレスの研究、心の健康、働く人のストレス管理、睡眠と健康など専門的に情熱をもって取り組む。大分県立看護科学大学教授。北海道出身。

 人生の価値、生き方の共通点などこころのあり方についての分析、こころの健康とは何かを大分県内4つの町村のアンケート調査を中心にして解説、お互いに支え合うことの大切さが自殺防止につながることを説明されていた。本人はキリスト教徒で、仏教寺での講演には胸がさわぐ(?)と紹介があったが、話の内容は仏教設話とおおきな違いはない。ちょっとだけ科学的ではあるが。

その他に『医療と行政』として講師足立信也医学博士、参議院議員、厚生労働大臣政務官の講演あり。

田深谷の田植え(2)2010-04-20 20:28:15
都会の友人からブログ感想が寄せられた。以下。

 ところで今時、”田植え休み”とか”稲刈り休み”とかはあるのかなー。

”田植え休み”には、灯油の入ったビンを持ち、上級生に連れられ苗代の蛾取りからやった思い出がある。”さなぼり”(田植えが終了すると集落の神社ご馳走を持ち寄り田植えの労をねぎらう行事)の風習は残っちょるのかなー。これは労をねぎらうと同時に産土の神・自然の神に稲の無事な生長を祈る行事でもあったのではと今になって思う。

 また、稲の間の草取りは今はどうやっちょるのかェ?除草剤で対応?

稲の間の土を起し養分を入れる役目と同時に草取りもする手動の草取り器を初夏の暑いさなかに押して回る作業をやらされた記憶がある。

すべてはこの4枚の組写真にある。背景の田んぼは1反ぐらいであるが、田植えの時の稼働時間は1時間くらい、あっけない。「産土の神・自然の神に稲の無事な生長を祈る行事」など感じる暇はない。同様に草取りも機械じゃな。人間様と自然の間に機械が入り込んでいて、一体感ではなくて複合感というのが正解かも知れんな。弥生時代のお米と現代のお米の味がどう違うかわからんが、少なくともお米の形態は変わっていない。いやはや科学技術とはやっかいなこと。もはや産土の神・自然の神はいない。

観光庁アクションプラン2010-04-16 19:58:15
 観光庁発足はすばらしいことということで以前にエアーフロントの「airfact」で紹介したこありますが、観光庁は国土交通省の外局で、平成20年10月1日に発足しました。ー我が国の「観光立国」の推進体制を強化するためと、諸外国に対して、観光庁が我が国政府を代表し、対外的な発信力を強化、従来の縦割りを廃し、政府をあげての取組みを強化する。そして観光庁は地域・国民の皆様に対し、観光に関するワンストップ的な窓口となるー。21年4月改定版でアクションプランは以下のこと唄っています。

1.インバウンドの推進:訪日外国人旅行者数を2010年までに1000万人、2020年までに2000万人←ほんとかな!

2.アウトバウンドの推進:日本人海外旅行者数を2010年までに2000万人←自助努力でがんばらんとな!

3.国内観光旅行の振興:日本人の国内観光旅行による1人当たりの宿泊数を2010年度までに4泊←日本人の国内観光旅行による1人当たりの宿泊数を2010年度までに4泊としていますが、参考までに15年度では2.81泊、16年度2.78泊、17年度2.89泊、18年度2.72泊、19年度2.42泊となっていて下降気味、4泊目標はかなりきびしい。さあさあ皆さん旅行して宿泊しましょう。

4.国際会議の誘致開催:国際会議の開催件数を2011年までに5割増←出来ないことではない。企画立案が重要。主催団体は民間にまかせよう。

5.観光産業の国際競争力の強化←具体策を早く造ろう。

6.観光統計の充実←あとでもよい。

7.観光庁ビジョンの実現に向けて:新しい意識と組織文化の創造←外局扱いでなく独立させましょう。

上図は表題のとおりですが、2000年以降の日本人海外旅行者は変わらずが気になります。さてさて原因は?

田深谷の田植え2010-04-15 20:15:15
 4月早々から田植えが始まっています。写真は12日ですが、田んぼに水をはったのは2日ころです。稲作の全行程が機械化されていて、それぞれの作業はあっという間に完了です。人間の労力が介在するのは少なくて、稲の成長は自然まかせというわけです。この点は古代も現代も同じでしょうが、どうにもならないのが天気です。スーパーコンピューター時代になっても天気予報が当たらない現実がありますので、稲の生長が自然まかせということになにか安堵感がありますね。水田を見て落ち着くのは自然との一体感があるからでしょうか。

デニソワ人2010-04-14 16:51:15
 ロシア南部のアルタイ山脈、4万8000年前から3万年前、現生人類やネアンデルタール人と、近縁ながら未知の異なる系統の人類が共存していた可能性があるとの報道があった。英科学誌ネイチャー電子版の報道では ‘’Fossil finger points to new human species‘‘とある。小指である。小指から取ったミトコンドリアDNAの解読からわかったらしい。現地名をとった「デニソワ人(Denisova)」は約100万年から3万年前の間生存したらしい。この他にインドネシアなどで発見された人種など一時期3種以上の多様な人類がこの地球上に生存していた可能性があるという。現世人種ホモ・サピエンスだけがいきのびてきたのも不思議なことではある。三浦梅園さんが生きていてこのことを知ったならば、人類のたどった道は‘’わたしがいう「条理は天門のさやくとも申し候」‘’というかどうか。系統的には梅園先生が見通したところではあるが、なぜそうなったのかは今もわからない。人類誕生の秘密と生き残りは最新の分子生物学などの研究がそのことを解明してくれるかも知れない。小指は重要。

市議選結果2010-04-12 20:34:15
 任期満了に伴う国東市議会議員選挙は11日、投票が行われ、即日開票されました。26人で22議席を争った結果、現職16人、新人6人が当選しました。 初の女性市議も誕生しました。 12日は新聞休刊日で、国東ケーブルテレビによる獲得投票数はつぎの通りです。多い順で上位から22名が新市議会議員です。()内の数字は獲得数。

国東市のためにがんばってもらいましょう。拍手!

 森正二(1842)、 吉田真津子(1464)、 唯有幸明(1280)、 明石和久(1078)、 堀田一則(1014)、 馬場将郎(928)、 丸小野宣康(911)、 秋国良二(901)、 宮永英次(878)、 後藤耕一郎(868)、 木田憲治(865)、堤康二郎(850)、 木付親次(850)、野田忠治(836)、 溝部元生(784)、伊牟田洋史(754)、 元永安行(754)、 大谷和義(743)、 清国仁士(730)、 松本剛弘(646)、 吉水国人(807)、 一丸政春(603)、 吉松京一(590)、 綾部敦(556)、泉幸成(258)、山本正士(123)。

国東市議選2010-04-08 20:44:15
 4月4日告示、4月11日投票で 任期満了に伴う国東市議選(定数22)に現職18、新人8の計26人が立候補。党派は全員無所属。全市1選挙区で実施される。定数も4削減の22名となっている。 投票は11日、市内18カ所。即日開票。現在の有権者数は2万8144人(男1万3280人、女1万4864人)。候補者の職種はいろいろ、年齢は36〜71歳までの広がりがある。写真は3日撮影。

田深谷の映画館2010-04-06 21:55:15
 写真は昭和35年(1960)頃の写真です。田深交差点近くにある橋本屋(仕出し料理)さんの開店当時の写真です。もともとは田深谷で唯一の木造2階建ての映画館でした。映画館がつぶれたので買い取って開業したとのことです。この年はカラーテレビが発売になって、テレビ受信契約が500万台を突破しました。カラーテレビは17インチで42万円でしたからさしずめ今様の液晶テレビ60インチと言ったところでしょうか。この間50年です。アナログからデジタルへの通信手段への変化が進行中ですが、思いのほか大きな変化が起きています。いろいろな情報が波形でなく、〇一の数字で送ることができるのがわかって僅かのあいだの変化で世の中が変わってしまいそうですね。私にとっての情報元年はパソコンをはじめて購入した1982年頃でしょうか。この50年間では丁度中間です。当時82万円で購入したパソコンは捨てがたく今でも手元にありますが、機能では携帯電話以下の代物です。今でも動きます。しかし必要ないのです。そこが悲しくも切ない所です。はい!私の手元には現役でmac,win環境下で5台のパソコンが働いています。休眠状態が4台ですから9台が手元にあります。あーどうしましょう。田深谷の映画館はかげ形もなくて、記憶のみにあるのですが、私のパソコンは形があります。これが20年と50年の違いですか?文化財のまとめをしていて感じていたのですが、あなたは何を残しますか。指定文化財の石造建築物に記銘があり、地名と名前が列挙されています。が組織名はないのです。すべて個人だったのですね。あなたは組織で生きていませんか。それは残りませんよ。個人の生き様が重要です。文化財はそのことを教えてくれます。あ〜。

国東市の指定文化財2010-04-02 20:54:15
 国東市にある文化財は434件、国関係43件、県市は401件である。全国でみると県関係はおよそ20,922件、市町村は85,201件、計106,123件とある。この中で国東市の指定文化財は多いのか少ないのか。こんな見方もあるということでの紹介であるが、国民1000人あたり1件が平均的な数字である。国東市人口33千人で33件の指定文化財ということになる。まあ10倍以上の指定文化財を持っていることになる。これらの文化財はいわゆる六郷満山、神仏習合に関係するものが多いことに特色がある。国指定のすぐれた文化財もあるが、大半は市井の生活に密着したもので、華やかさは少ない。いわば枯れた古典の美しさが基本である。特に石造の文化財はそれぞれの谷に溶け込んだ自然の風景になっている。国東市にある指定文化財434件全部が公開されたが、地区毎に紹介されているのは、それぞれの谷空間を一緒にみてほしいという願いがある。指定されていない多くの石造物、特に庚申塚などが散在しているところも多い。文化財ホームページ制作者(田深谷の管理人)がめざしたのは空間も一緒に見て下さいということです。このホームページは国東市のトップページからご覧いただける。

三国志の英雄・曹操の墓(2)2010-04-01 21:13:15
 身辺が一段落しましたので田深谷くらしの再開です。

本日は前々回(20100101)につずいて曹操の墓の話題ではじめましょう。先日の新聞情報によりますと「 曹操(155〜220) の墓をめぐり、DNA鑑定で真偽に決着をつける計画が中国で進んでいる。中国全土の「曹」の姓をもつ男性から血液を集め、墓から出た遺体のDNAと比べて検証する。」ということのようですね。また、「曹操には文献などに記載があるだけで20人以上の息子がおり、現在の中国に約770 万人いるという曹の姓を持つ人に子孫が多く含まれるとみられる。

」いやはや壮大な遺伝子捜査ですね。こんなことをなんのためにするのでしょうか。墓は曹操のものである可能性が高いのですが、偽物の可能性があるのです。「観光地化を狙った地元のでっちあげでは」という声に応えるために 上海・復旦大の人類遺伝学の専門家らの研究チームが実施します。

昨年に話題のレッドクリフ1・2に限らず、今でも三国志ストーリーは人気一番です。何故人気なのかの原因の一つが遺伝子にあったのでしょうか。うむ?そうです!約770万人もの「曹」姓がいるという事実です。

写真はお墓ですが、大きくて地中深いところにあるんですね。本人がご自身で入れませんので子孫が案配したのでしょうか。これも遺伝子力の強さでしょうか。ちょっと話題がそれるのですが、今「無縁社会」ともいう現象があるようですがまずいですね。「有縁社会」にしましょう。

北林さんの玄語研究2010-01-10 21:13:15
北林達也さんの「 玄語総図初筆復元版」が初版200部できあがり、粲立読み「玄語」も原著通り、全八冊の構成で出版(自費出版)する見込みが立ちましたとの連絡いただきました。その際のレターを掲載しています。長文ですのでエアーフロントの梅園コーナーに掲載しています。重要な梅園研究の方向が示唆されていると感じています。有志のご協力を期待します。ここの管理人も「 玄語総図初筆復元版」を10部預かっていますので、ご希望の方はご連絡ください。

「梅園さんのコーナー」 
http://www.airfront.jp/baienworld/kitagengo/kitagengo.html

北林さんのホームページ:【三浦梅園の謎を解く】
http://www.coara.or.jp/~baika/

三浦梅園学びの道が成長中!2010-01-08 11:24:15
■企画展■

2010年1/10(日)~ 2/10(水)

会場 三浦梅園資料館

三浦梅園資料館入館料: ※団体は10 名以上

大人300 円(団体200 円)

中学生以上200 円(団体100 円)

開館時間:午前9:00~ 後5: 00

毎週月曜日と祝日の翌日は体館日

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■講演会■

2010年1/24(日)午後1:30~

会場「梅園の里」

講師 久米忠臣氏・・・梅園の学びの姿勢は〈問うこと〉であった。・・・

入場無料

請師紹介:杵築史談会会長。長年にわたつて幅広く史料の発掘・解読や解説にあたり 、歴史文化研究の発展につくされている。

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■ 「三浦梅園学びの道」ウォーキング■

2010年2/7(日)

集含 午前8:30(三浦梅園資料館)

行 程:三浦梅園旧宅~杵築藩校・学習館旧跡

《三浦梅園旧宅→弁分→山浦→橋上→観清寺

→黒岩往還→三光坊→五田→宮司→学習館旧跡》

参加費:大人1000円/高校生以下500円

(昼食・バス・保険料含む) 服装:動きやすいもの 持ち物:タオル・雨具・帽子・飲料水

申し込み:1月31日(土)までに下記連絡先へ

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連絡先・間含せ先

国東市国東町安国寺1639-2 国東市歴史体験学習館 電話:0978-72-2677

三浦梅園資料館:〒873-0355国東市安岐町富清2507-1 電話:0978-64-6311

梅 園 の 里:〒873-0355国東市安岐町富清2244 電話:0978-64-6300

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魏王の墓2010-01-01 22:00:15
おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 虎、寅。今年はいいことありそうですね。

ここ数年卑弥呼のこと調べていたのですが、年末ビックニュースが飛び込んできました。

倭女王卑弥呼が魏に遺使を派遣したのは239年でした。この事実も中国の記録でわかったことですが・・・。

今回発掘が発表された中国河南省安陽県で確認された三国志の英雄で魏の始祖、曹操の墓「高陵」とともにたくさんの資料の中に上の写真「魏武王」の銘文が刻まれた石牌(せきはい)がありました。他に公開されたのは全長約40メートルの墓道や前・後室など墓内部の写真のほか、装飾品の写真などですが重要なのはこの石牌です。今回の確認で、諸説入り乱れていた曹操の墓の研究は大きく進展することになりそうで、「高陵の発見は非常に重要な意味を持つ」と中国当局は言っています。

さて、時代です。魏王(曹操)は155~220年、当然倭国の遺使があったのは曹操の後の王(明帝)ということになりますが、三国時代に何度かの交流があり、文化の進展があったことでしょう。266年倭女王壱与の時代に国交断絶に事態になるのですが、27年間続いたということでしょうか。当時の中国には写真で見るように立派な文字があったようですが、神獣鏡(239年)以外の資料の持ち帰りはなかったのでしょうか。残念なことですね。白川静さんによると甲骨文、前1100年頃のものが漢字起源とすると、 曹操時代すでに1300年は経過していることになります。倭国で漢字らしきものがでてくるのが古墳時代の5頃世紀ころですから、大陸での漢字発生から倭国の漢字出現まで1500年の開きがあります。さらに現代まで1500年。すなわち漢字出現から3000年で現代の情報時代になったというわけです。記録を残すことは大切なことですね。さてさて現代人はどう記録を残しますか。ハードディスクに残しますか。残しても10年先には読み取る装置が変わって記録が読めない事態になっているのでしょう。ここ20年で経験済みのことです。石牌を造りますか。あなたの人生軌跡残しますか?どうします。

一知一乱(いっちいちらん)2010-01-01 15:29:15

あいさつ運動2009-12-28 21:15:15

三浦梅園学びの道を歩く2009-12-26 18:34:15
先にお知らせの三浦梅園学びの道のウォーキングですが62名の参加でした。
—-抜粋
ここからは緩い下り坂に背中を押されながら快適に歩く。お茶とミカン畑を過ぎると五田(ごた)地区へ出る。今の地名は鴨川かな?ここの菅尾公民館に石に刻まれた道しるべがある。右ふるいち、左ふさご?至と刻まれている。左ふさごはふたごだろうか?
何とか読みたいが、読めない。もう少し下にあった様だが、この公民館のかどへ移されたらしい。
梅園少年は16歳の時この道しるべをあてに歩いたのだろう。
ふと目をやると大分空港道路の杵築インターチェンジが見えていた。
——
国東半島かぜ通信の青鬼さんが詳しく報告。
http://seitaka.web.infoseek.co.jp/

http://seitaka.web.infoseek.co.jp/sub3-sanpo/sub3-85/sub3-85.htm

田深谷雪2009-12-19 08:35:15
 今年は雪が2週間ぐらい遅いという感じです。今朝の田深谷の写真です。右上の道路の向こうにかすかに見えているのは両子山です。海岸から両子山まで可能な限り一直線の道路です。しかも東西方向です。平安時代に決めた方向そのままです。この道路を基準として東西南北に区画割りした条理遺構が発見されています。残念ながら農地改良事業で遺構は消失、記録は残されていますが、指定文化財にはなっていません。 日常はなにも考えない道路ですが、 道路一本にも1300年の歴史があります。これ以上もこれ以下もないということでしょうか。なんともたわいない写真で申しわけありません。

左上:両子山塊、左下:田んぼの薄化粧、右上:東西道路、右下:弥生村記念公園。

国連気候変動枠組み条約2009-12-17 18:28:15
 今話題のコップ15ですが、なんでこんなにもめるのでしょうか。困ったものです。それにしても日本はすごいですね。東洋の東端の小国が最大の拠出金を出すというのです。田深谷の住人としてはびっくりすることばかりです。複雑な国際関係があるのでしょうか。誰か教えてください。2兆円を出す理由についてです。
——

デンマークのコペンハーゲンで開かれている国連気候変動枠組み条約、第15回締約国会議COP15で12月16日、先進国は温暖化対策に合わせて220億ドル(約2兆円)の資金拠出を提案した。
 最大の拠出を表明したのは日本で、小沢鋭仁環境相はCOP15で包括的な合意が得られれば途上国の気候変動対策に1兆3000億円の公的資金を含む1兆7500億円を拠出すると発表した。
 日本はまた、オーストラリア、英国、フランス、ノルウェー、米国の5か国とともに、温暖化の原因の1つとされる森林破壊対策のための基金を設立のため、2010年から2012年にかけて共同で35億ドル(約3100億円)を負担するとの共同声明を出した。

(図解図はAFP提供)

復活 三浦梅園学びの道2009-12-05 12:02:15
第24回 くにさきテラピ一 梅園の里ウォーキンゲ
(富永から杵築城まで:里道あり)
日時:平成21年12 月12 日(士)
集合場所:梅園の里
集合時間: 8:45 集合 9:00 出発
コース内容:(16km):案内図(帰りはマイクロバスです)
参加料:1000円(昼食弁当・入浴券・バス・保険料含む)
※注意事項:服装は動きやすい軽装
各自持ち物は、タオル、雨具、帽子、飲料水
■申し込み・問い合わせ先■
梅園の里 国東市安岐町富清 2244 TEL 0978-64-6300
主催 安岐ウォーキング愛好会 共催 梅園の里
———
その後、国東半島の風・青鬼さんが参加、写真いりの詳しい報告があります。参加者65名とあります。
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長岡さんからの便り2009-12-04 21:11:15
長岡さんを紹介する資料がないのでご本人の奥様からの便りを紹介します。
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早速「田深谷のくらし」に掲載していただいて、感謝しています。
藁葺き屋根の絵について、書いていただき嬉しかぎりです。日本には良いものが沢山有りますね。消えて行く風景も絵に描いていきたいと考えています。
元々抽象画を描いていたのですが、人生の大きな転機があり、大分県知事賞をいただいたのち、八年位絵を描くことを中断していました。その後再開して、コスモスを描くようになりました。生かされていることの喜びや生命、光や風、水、花、山、海、川等々の自然をよく描くようになりました。今年は60歳の区切りで地元で個展が開催できて絵を皆さんに見て頂けて嬉しいです。皆さんからのいろいろな言葉が励みになります。これからもどうぞよろしくお願いします。

長岡卓油彩画展2009-12-01 18:42:15
 国東市安岐町在住の長岡卓さんの個展が開催されています。写真左上の「里の秋」は安岐ダム近くの里風景ですがこの藁葺き屋根の家はもうありません。原風景は変わっていきます。こういう絵で残っていくのは地域にとって大切なことです。ソフトな感じの絵でくにさきの谷の空間がよく表現されています。長岡さんの絵にはコスモスがよく描かれています。国東の谷々には秋桜がよく似合う。

山車の消息その2・旦過寮2009-11-29 12:25:15
 この写真の撮影2003年。車上の山車です。50年でこうなるということです。最近かっての賑わいを復活させる動きがありますが、田深谷の山車はこの車上山車で健在ですし、子供達のお練りも毎年行っています。報告する機会があると思います。さて写真のバックに藁葺き屋根が見えていますが、ここが泉福寺の旦過寮でした。今は住んでなく、大切に保存されてはいますが、屋根など限界に来ています。家主さんを中心に仲間内でどう維持保存するか話題になっています。なにかいい知恵はありませんか。

ところで田深谷最大の指定文化財の持ち手は横手にある泉福寺です。国指定は3件、その中でも「宋版宏智録」は貴重なものです。天下の稀覯本です。また、泉福寺は一時1000人を越える修業僧がいたと言われています。海上交通時代の国崎(東)は九州のゲートウエイでした。旦過は湊に近く宿所として最適な場所で、旦過から泉福寺までは徒歩で2時間の距離でした。

—資料より—

南宋・明州天童山の正覚(しょうかく)、諱は宏智(わんし)が招聘27年(1157)寂するまでその一代の歴住禅院における上堂法語・偈頌等その語録を集大成したもので、宏智録、宏智語録、宏智広録等と称されている。

宏智正覚は中国曹洞宗の丹霞(たんか)子淳(しじゅん)の法をついだ人。建炎3年(1129)天童山の住持となり、臨済系の大慧宗の公案禅に対して公案をもちいない黙照禅を主張した。

 曹洞宗の開祖道元禅師は西暦1223(道元24歳)年入宋し、南宋の首都臨安(現在の浙江省杭州)に近い明州の天童山に入り修業するのであるが天童山の住職如浄禅師に師事して初めて佛教並びに禅について禅の奥義を大悟徹底して1227年(道元28歳)、日本に帰国して本格的に禅宗をひろめることとなるのであるが、宏智は如浄の三代前の住職であり師如浄を通じ又宏智に共鳴するところが多かったものと想われる。

 後年道元はその著「正法眼蔵」「坐禅箴(ざぜんしん)」の巻において宏智の書いた「坐禅箴」を激賞している。

泉福寺に秘蔵の宏智録は宋代に刊行された稀覯本であり、以後わが国において刊行された宏智録はこの泉福寺本を底本として刊行されたものと云われている。


山車の消息その12009-11-28 20:42:15
 21日掲載の写真よりは数年前の撮影のようですね。昭和32年(1957)8月1日。明らかに夏祭りです。山車の舞台の大きさがわかりますね。山車のバックには八幡様の鳥居が見えています。この年は旧大分空港が開港した年でもありました。ソ連の人工衛星打ち上げ成功にもびっくりしましたね。テレビの本放送は昭和28年でしたがまだまだ一般家庭に普及してなくて山車の講演も人気があったのでしょうか。山車の横を颯爽と歩いている子供達の動きが楽しそうです。

くにさきの信仰と祭り2009-11-28 15:36:15
未来に受継ぐ-国東の文化遺産展

第1回 くにさきの信仰と祭り 開催中です。

2009年11月8日(日)ー12月27日(日)

展示内容:

国東市の代表的な祭り(無形民俗文化財)である修正鬼会・ケベス祭・𠮷広楽・諸田山神社御田植祭・盲僧琵琶等の展示と峯入りの写真集が紹介されています。

旦過入り口界隈2009-11-22 11:16:15
旦過入り口界隈

 写真は50年前(1960年代)の写真である。田深にある天満宮では夏冬の2回祭りがあり、山車(ダンジリ)が出て田深町内を練り歩いていた。この写真の撮影ポイントは旦過入り口で旦過に向かう山車を撮ったものであろう。写真の2軒の家はすでになく、道路となっている。向かって左の家は「松月」で結婚式の披露宴などの会場で今でいうコンベンションホールであった。経営者は橋本国夫さんで、三女の京子さんが近所に住んでおられるが、この山車は松月さんの寄付で作ったものらしい。山車の上の舞台は畳一畳ぐらいで本格的な舞を講演していたとのことである。舞の師匠は市川小南さんで、杵築の山車の舞も兼ねて稽古にはげんでいたらしい。山車の車は祭り以外は松月の庭の池につけて、乾燥をふせいでいたとのことである。文字の記録が残っていないのでどのくらいの期間つづいたのかはわからない。夏まつりは7月24,25日の開催らしいので、この写真からすると夏の風景ではない。冬まつりのようだ。人々のわずかな記憶と写真に残されているが、50年前の空気はもう残っていない。半世紀という歳月は永いのか短いのか!

(撮影者は1958-1962(昭和33~37年期)の町長青木繁さん、提供者は息子の青木弘さん)

旦過は横手にある泉福寺の修業僧の寮として栄えた地区である。泉福寺は元和元年(1375)の開山である。多くの指定文化財を有する。

麻田剛立22009-11-05 13:29:15
7月31日号で紹介した麻田剛立に関しての記事です。JAXA報告のとおり。すばらしい!すばらしい!すばらしい!

上の画像は、「かぐや」の地形カメラがとらえた「麻田(アサダ)クレータ」(7.4N 49.9E、直径 約12km)です。このクレータは江戸時代の天文学者 麻田 剛立にちなんで命名されています。
麻田 剛立(あさだ ごうりゅう)(1734-1799)
麻田剛立は江戸時代中期に活躍した豊後杵築藩(現在の大分県杵築(きつき)市)生まれの蘭方医・天文学者です。麻田は藩医として勤める傍ら独学で暦学・天文学を学びました。1763年には暦に記されていない宝暦13年9月1日の日食を予言し的中させ世に知られます。1770年頃に大阪に移った後も、医で生計を立てながら天文学の研究を続け、望遠鏡などの観測器を考案しケプラーの第三法則を独創したといわれています。また望遠鏡を用いた月の観測も行い、現存する日本最古の月面観測図を残しています。弟子には高橋至時(たかはしよしとき)や間重富(はざましげとみ)など、後に天文学や地図測量で大きな功績を残す人材を輩出しています。
これらの麻田の功績は、三浦梅園(みうらばいえん)や中井履軒(なかいりけん)などの著作により後世に伝えられました。また国際天文年である今年(2009年)の中学生読書感想文課題図書には麻田の生涯を描いた「月のえくぼを見た男」が選ばれています。
当該のデータ処理は、LISM/TC 機器チームが実施しました。

国東の文化遺産展2009-11-02 10:13:15
未来に受継ぐ

国東の文化遺産展

第1回 くにさきの信仰と祭り

2009年11月8日(日)ー12月27日(日)

第2回 市民の文化遺産(お宝)展

2010年1月17日(日)ー3月14日(日)

第3回 第1次安国寺集落遺跡出土品郷がえり展

2010年2月2日(火)ー3月14日(日)

プログラムなど随時紹介します。

梅園さんの「疑団」2009-11-01 20:48:15
 梅園さんは宗教とは無関係と思っていたが、先に紹介した「習気」とか今回紹介の「疑団」は仏教用語である。仏教のなかでも曹洞宗系と思うのは気のせいか。国東半島の神社の鳥居には梅園さんの記銘が多い。梅園さんは卓抜した大書家で多くの遺墨を残している。さて、「疑団」であるが、「多賀墨卿君にこたふる書」のこの部分では、多くの疑問を持てと言っているわけで、とかく○○○の筈、○○○の筈、○○○の筈、と言って物事を深く理解していない。「筈」、「筈」、「筈」で済ましてしまうことに警告を発しています。梅園さんは何事も基本から問い直すことが基本姿勢となっていて、新羅万象解明の書が「玄語」というわけです。この考え方は現代に通じるわけで、多いに疑団を持って今の変革の時代を考えることにしませんか。

 この疑団しばらく続きます。

参考:岩波仏教辞典

疑団(ぎだん) 修行の上で起る疑問、疑い。

‘’道元が叡岳在山中に発した疑団は有名である 。「つらつら経論を渉猟して自ら疑ひ有り、謂く本来本法性,天然自性身ともし此の如くならば即ち三世の諸仏、なにに依ってか更に発心して菩提を求むるや」(訂補建衡記)禅では、法を求める気持が強いほど人きな疑団はあるものとして、むしろ疑団を肯定的に受け容れる場合がある。→疑惑。


テロメア2009-10-07 20:53:15
 2009年のノーベル生理学医学賞は米国のエリザベス・ブラックバーンとキャロル・グレイダー、ジャック・ショスタクの3氏が受賞されると発表されました。受賞の対象が細胞内にあり、遺伝情報が書き込まれている染色体の末端部分「テロメア」という構造体の研究が評価されたとあります。最近の分子生物学(分子遺伝学・遺伝子工学)が熱いですね。ヒトゲノムのDNAの塩基配列が3万個であることがわかったのは2001年でした。当初は10万個ぐらいと考えられていましたが実際は3万個でした。生物の頂点がヒトですから、以外に少ないことは驚きでした。個数が多いことが人間である理由ではないのですね。遺伝子の質とか作用が関係ありそうですね。

 遺伝子解明は進んでいますが、生命の起源は依然としてわかっていません。生命の系統樹の中で突然変異があったのではないかと言われていますが、今回受賞対象の「テロメア」などの染色体の末端部分が重要な役目を果たしているのではないでしょうか。ここの管理人は遺伝子研究とは無縁ですが、生命の進化には感心があり、約5億年前のカンブリア紀の生命のビックバンは突然変異そのものですから、遺伝子もこの時に変異したのではないかと疑っているわけです。変異に関係したのがこの「テロメア」などの末端組織体ではないのか思っています。これは直感です。

 最近の知見ではテロメアによる細胞老化は個体の老化と関連することが示唆されていますし、テロメアとテロメラーゼは細胞老化と不死化を制御することによって、がんの発生にも関与していると考えられているようです。エリザベス・ブラックバーンさんは著名な女性科学者のようですが、チームの方々には今後ともがんばってほしいものです。まずはおめでたいことです。・・・重要な変化は末端にありです。・・・

(上の図はグーグルからの転用です。あまりの複雑さにびっくりです。本命は細部にあり)

田深谷スペッシャルレポート2009-09-24 20:23:15
田深谷スペッシャルレポート

 9月21日、敬老の日、あいにく式典には出席出来なっかったのですが、紅白のお餅、紅白の蒲鉾、お茶、地元商店街商品券と田深区老人寿楽会秋場所番付表のお祝いをいただきました。以下は番付表を見ての感想です。

田深谷には約9000の人が住んでいます。田深区が一番人口が多く約1300人です。このデータでは70才以上の人口は女性173人、男性110人、計283人となっていますので約30%が高齢者となるのでしょうか。住宅地やアパートには若い人も住んでいますので田深区の高齢者人口の割合は低いと思います。低くて30%ですから、区によっては高い方は50%を越えているのでしょうか。谷の生活を守る限界に達しています。いわゆる限界集落です。なんとかせねば。限界集落を超えた集落は「超限界集落」から「消滅集落」へと向かうことになるわけでかなしいことです。過疎とか水源の里とかいきいき集落とか言い方を変えようという動きもありますが人口構成の本質・傾向は変わりませんので自らの変革しか変えようがありません。政治の本当の力がここに必要です。浮かれている暇はないのです。幅広い社会救済の政策が必要です。さあ考えましょう。ところで番付表を見ると、番付表の西方は女性で横綱は100才の方、東方は男性で横綱は91才、やはり女性の方が長生きですね。救済策は男性思考ではなくて女性思考で考えるのが正解かもね。

習気(じっけ)2009-09-23 13:06:15
 梅園の著作の中で条理の基本を解説した「多賀墨卿君にこたふる書」がある。原文2ページ目の冒頭行にあるのがこの「習気」という単語である。この部分を上図中に示すが、書き出してみる。

・・・生まれて智なき始めより、ただ見慣れ、聞き慣れ、触れ慣れ、何となしに癖つきて、是が己の泥(なずみ)みとなり、物を怪しみいぶかる心萌(きざ)さず候。

泥(なずみ)みとは所執(しょしゅう)の念にして、仏氏にいはゆる 習気にて候。何分心のはたらき出来らず候。阿難はさとられしかども、前生、猱(さる)にて有しゆへ、 猱の習気やまざりしと申候。是よきたとへに候。・・・

梅園さんは既存の知識を取っ払って天地を考えよ。そうでないと天地のことはわからん。人間の前世は猿らしく、さるのままで考えてわかるはずがない。新しい人間としてなずみをなくして物事を考えよと言っているのです。かなり手厳しい。

今や、56年ぶりに政権が変わった時、習気で物事や世事のこと考えていませんか。まずは身についた泥みを取っ払って考え直すいい機会かもしれません。それにしても梅園さんにはびっくりさせられます。江戸時代にこういうことを言えるのですからびっくり。本人がすばらしいかったのか時代の環境が良かったのか。それにしても国東半島の谷の一つの中での発想です。中国の知識の流入があったことは間違いないのですすが、本人が咀嚼して自らの思想にしたことがすばらしい。きっとこの時の時代背景がもよかったのでしょうか。文化的な側面で江戸時代への認識を新たにする必要があるかもね。

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習気は岩波仏教辞典によれば次のようにある。

習気じっけ(s:vasana)〈じゅって)といよみぐせがある。*薫習(くんじゅう)の結果残された気分、習慣的な力。‘’業(ごう)の潜在的余力。

たとえば悪業の薫習によって煩悩が生じている場合、煩悩そのものを滅してもその後に習慣性の残っていることをいう。多くは煩悩についていうが,‘‘菩提心・善業等の習気を説くこともある ‘’。唯識法相宗においては、(種子)と同義語で, その異名とされる。

しかし同宗においても,断惑の実践を説く場合には、両者を区別し、種子を断じた後において、習気を捨てると述べている。「汝毒念の心あるは, これ毒蛇の習気ならくのみ」(法験記下93)

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大友宗麟・義統2009-09-19 11:58:15
 国東半島には大友宗麟の焼き討ちに会い消失した社寺が多い。宗麟・義統とはいかなる人物か。大友宗麟(1530~1587) は戦国時代の武将である。 キリスト教名ドン・フランシスコ。 最大勢力時の時は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後国の守護となり九州探題をつとめた。天文二〇年(1551)山口からザビエルを府内に招き、キリスト教布教を許可し保護を加えるとともに、南蛮貿易を積極的に行う。永禄二年(1559)には九州に進出してきた毛利軍と門司城で合戦が始まり、豊・芸合戦が展開した。永禄五年(1962)には大徳寺瑞峯院の恰雲宗悦を戒師として剃髪して、宗麟と号し、府内を嫡男義統に任せ、臼杵丹生島城へ移り住んだ。元亀元年(1571)に毛利元就が病死し、毛利軍は九州から手を引き、義鎮の北部九州支配が本格化する。天正初年頃に家督を義統に譲るが、引き続き後見を行い、父子の共同統治体制を展開。同六年にはキリスト教に受洗し、土持親成成敗のため日向に出兵するが、高城で島津軍と戦い大敗を喫し、以後領国は衰退に向かう。肥前の龍造寺隆信や同族の田原親宏・親貫らの離反が相次ぐ。同一四年には、北上する島津軍が豊後へ乱入し、宗麟は上坂し豊臣秀吉に救援を求め、同一五年秀吉の九州征伐が行われ島津軍は撤退した。この時の事情は遠藤周作の「王の挽歌」に詳しい。

問題は国東半島の重要な社寺が宗麟・義統の焼き討ちにあい消失したことである。天正九年(1581)に宇佐宮が兵火で焼き討ちにされた時と同じ頃千燈寺、小野寺寺などは焼き討ちにあったのであろうか。 いずれにせよ、宗麟の子である義統が積極的に寺社破壊を命じたのは一時的に日向北部を支配した時期だけである。 宗麟にはいろいろの事情があったにせよこの豊後を中心に「キリシタン王国」の建国をめざしたのであろうが、あえなく本人の死によって消えてしまった。豊後の中世・南蛮文化も終わった。焼き討ちにあった寺に残されたのはわずかな石造物だけである。なんとむなしいことか。最近solinなる雑誌まで出て府内の国際文化をたたえる向きもあるが、国東半島にとっては大友宗麟・義統親子は鬼門である。(写真は2年前、臼杵公園/臼杵城跡で撮影)

次のステップへ2009-09-14 20:09:15
「 田深谷のくらし」は「 田深谷のくらし2」として「はてなダイアリー」でも継続します。記事の重複ありです。このプログは2006年3月16日に開設したものですが、今回「 田深谷のくらし2」として範囲を広げて続けていくことにします。本を通じていろいろな人に会うことにします。いままでの「 田深谷のくらし」はそのままこのアドレスで存続していきますので引き続きご覧いただきたいと思います。

「 田深谷のくらし2」のアドレスは:
http://d.hatena.ne.jp/kunisakimon/20090914

この「 田深谷のくらし」は下記のアドレスです。
http://web.me.com/airfront2/Airfront9/Blog/Blog.html

今後ともご愛顧の程お願いします。

一炊の夢2009-09-01 03:33:15
9月1日ー14日 秋眠します。

河野清美2009-08-31 05:11:15
 河野清美(1878-1952)は国東市安岐町の八坂社宮司の家に生まれで、 郷土史家であり神職であった。 10歳ごろ杵築の国学者・清原貞雄宅に寄宿して国文学、歴史を学んだ。明治29年皇典講究分所教科を修了し、同31年に高等小学校准教員免許状、尋常小学校正教員免許状を取得し、翌年、東国東郡富清高等小学校に勤めた。のち上京して桜田尋常高等小学校に勤めたが、まもなく父の逝去で帰郷して官司職を継いだ。その後、福岡県立八女中学校、私立習説校の教員、杵原八幡宮主典、県立国東中学教員を歴任した。この間、県下各地の史跡・文化財を調査し、国東塔・板碑・古墳などを発見しまた神社鳥居の研究でも知られた。特に国東町の安国寺遺跡の発見は全国的に有名となった。最近のことであるが、「西の登呂」と呼ばれ弥生時代の代表的遺跡とされる安国寺集落遺跡(国東市国東町)から出土した土器(完形約80点・土器片80箱分)が、およそ半世紀ぶりに九州大学から国東市に戻った。出土品の所有権は調査主体にあるため“返還”されることは珍しく、返還を願っていた河野輝明さんは「歴史的な調査の出土品がようやく古里に戻った」と喜んでいる。
 安国寺集落遺跡は九州文化総合研究所や大分県などによる合同調査で1952年頃に実施。出土した土器は弥生時代末期の様式として安国寺式土器と呼ばれるようになった。調査は九州考古学会創設の契機になったとされ、九州の研究者が総力を挙げて実施した大規模な調査だった。
 この調査のきっかけをつくったのが、河野さんの祖父で県史跡名勝天然記念物調査員の故・河野清実である。同町田深川の周辺で土器片が出土しているのを知り、文化財関係者に話を持ち掛け調査に至った。 昭和3年(1928)代表作とされ 先に紹介した、「國東半嶋史」上・下巻を刊行した。河野は昭和7年の合本発行の凡例のなかで「・・・我ら半島人はこの意義ある歴史を基礎として、意義ある活動を続け、次から次へと光輝ある歴史を織り加えて、更に永遠に向かって大国東半島を建設して行かねばならぬ、斯かる信念の本に筆を執ったのがこの国東半島史である。」と書いている。

 なんとすばらしいことではないでしょうか。国東半島人がんばれ!

空の日「スカイフェスタin大分」2009-08-28 06:01:15
 空の日が近づきました。ご参加ください。ここの管理人は航空・空港の仕事を40年やっていましたので気になります。

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我が国の航空は、昭和27年(1952年)の民間航空再開以来半世紀の間に目覚ましい発展を遂げ、今や国民生活にとって不可欠の交通機関となるとともに、空港は地域発展の核となっております。民間航空再開40周年にあたる平成4年(1992年)、より多くの皆様に航空に対するご理解と関心を高めていただくとの趣旨により、9月20日に「空の日」、9月20日~30日に「空の旬間」が設けられました。

〔プレイベント:8/29(土) キッズ探検隊 in 大分〕

「2009スカイフェスタin大分」イベント案内
 とき:9月12日(土)

【自由参加の体験イベント等】

○熱気球係留体験搭乗(先着200名)○空港内バスツアー○小型航空機展示○消防車等の展示及び消防体験○大分空港クイズラリー○制服子供撮影会○ステージパフォーマンス  ○ミス日本「空の日」○「空の絵」大集合展示○ふわふわめじろん○オリジナル記念写真プレゼント○空港内ウォーキング○キャラクターと力くらべ○有害鳥類防除の実演○警察車両、装備品の展示及び体験搭乗○空弁、機内用品等販売

【事前申込型のイベント】

○セスナ機遊覧飛行 100名(対象 年齢は問いません 有料1名2,000円)

10:00~15:00の間で36回(約10分間)、1回の定員3名

○管制塔・気象施設見学 90名(対象 小学4年生以上 無料)

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大分空港は国東半島の社会の窓(世界に通じるネットワーク)です。

吉武東里2009-08-27 05:40:15
 吉武東里(1886~1945)は国東町来浦出身の建築家で国会議事堂の設計を担当したことで知られる。没後65年ほどになる。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大)を卒業後、宮内省に勤務。度々欧米に出張し、様々な建築物を見る機会に恵まれたことで、建築家としての目が養われたようだ。少年時代までを過ごした国東町岩戸寺地区は、山あいの小さな集落。近くには、国東半島の石造文化を伝える国東塔などで知られる岩戸寺がある。

 国会議事堂は、17年がかりの大工事の末、1936年(昭和11年)に完成した。高さ65メートルの中央塔両側に衆参両院の議場を配した左右対称の美しいデザインは、わが国の象徴的風景の一つとして親しまれている。設計にあたって吉武は、英国の議事堂を意識していたいう。中央塔の屋根は、古代ギリシャ時代の霊廟(れいびょう)を参考にしたとの説もある。しかし、 議事堂は、 完成後もしばらくはその評価も様々だった。詩人・高村光太郎の当時の詩「事変はもう四年を越す」の中で、〈遠く悲しくさむざむと/墓のやうな議事堂の痩せたドーム〉と酷評している。いわれてみると墓に見える。竣工当初、それが墓のデザインだということは衆知のことのようだった。光太郎の詩はまさにその証拠と言える。戦時色が濃くなる中、国家のシンボルが墓場ではいかにも縁起が悪いと、人々が口をつぐんでいるうちに、由来があいまいになってしまった。なぜ議事堂が「墓」なのか。それは東里の次男で東大名誉教授・神戸芸術工科大学前学長吉武泰水の言葉「ドームではあまりに西洋的にすぎ、瓦屋根では東洋の一島国から抜け出せていないことを露呈することになると上司から言われ、父は随分悩んでいた」「東里は、近代政治の草創に参与して命を落とした伊藤博文(初代総理、明治四二年満州ハルビン駅で暗殺)のことを当然意識していたはずです。国政にあずかる者は死をも覚悟して事に臨むべし、というメッセージを議事堂に込めたのでしょう (1999/6/6読売)」。いま民族のアイデンティティーを見失っている日本。なおも迷走するこの国のかたちをどう整えていくべきなのか。東里の願いに、光太郎の叫びに、直弼の血に、国会議事堂という名の廟墓に骨をうずめた先人たちの苦闘のうめき声に耳を傾けてほしい(田中誠也)。

東京、下落合「大分村」には、建築家の吉武東里(とうり)が設計した建物がいくつか見られたようだ。横浜税関や国会議事堂の設計にたずさわる一方で、彼は東京や郷里の国東で多くの個人邸を手がけている。下落合で吉武東里が設計した建物は、国会議事堂と同様に大熊喜邦とのコラボレーション作品といわれる島津邸等が有名である。日米開戦のの ち、米軍の空襲が予想される1944年(昭和19年)、吉武は東京を離れ郷里の国東へと疎開している。国会議事堂の建設のあと、納得できる作品が残せなかっ たことで、失意の帰郷だったようだ。翌年の敗戦直前、円熟した作品を産みだせるのはまだまだこれからという時期に、59歳で他界した。郷里には東里がてがけた重光邸が国指定の登録文化財として保存されている。郷里はあたたかく迎えていることを報告しておきたい。

物集高見(もずめたかみ)2011-08-26 00:00
見(もずめ たかみ,1847-1928)は杵築市の出身である。父物集高世は国学者で、その指導もあって少年時代、故郷で漢学と国学を修める。長崎で蘭学、20歳の時、京都に出て玉松真広や六人部是香に師事して国書を修める。その後上京して漢学を修めて神祇官の宣教史生の職を得た。 24歳からは洋学も修める。教部省に出仕する(中録十等)。職務のかたわら辞書編纂を企画した。また「本邦語源考」「事物名義考」の研究発表もしている。高見の言語に対する興味はこの頃からあったらしい。学習院や女子師範学校の教授、國學院大學の創立委員の一人としても尽力した。 国語辞典「日本大辞林」編纂事業にかかわり、 49歳の時、勲六等瑞宝章を賜る。 明治32年3月、文学博士となる。東京帝国大学文科大学の井上哲治郎の勧告で大学を退官。背景には、門人上田万年との文学論争をきっかけとする、上田とその弟子たちによる追い出し工作があった。高見はこのことを深く恨み、息子高量に向かって「上田の家は小石川伝通院にあるが、決してその前を通ってはならぬ」と命じていた。辞職直後は、乱れた心を鎮めるため、自宅で習字ばかりしていたとも伝えられている。以後は私財を注ぎ込んで在野の学者として研究に没頭し、貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集め、さらにその総てを読破した。昭和2年2月、81歳の折には「皇學叢書」全12巻を刊行した。商業ベースの出版ではなかったため、膨大な借財を負った。昭和3年杵築市寺町の自宅にて逝去した。享年82歳であった。
「豊後国東半島史」の冒頭に半島小景があり、半島の各地を詠んでいる。ほとんどは高見のものであり、くまなく国東半島を踏査しているのがわかる。時に梅園の歌もある。田深河の所には「田深河流れに生ふる青海苔を柳の影にまがへつるかな」とある。現在の国東橋(田深橋)付近であろうが、その青海苔がない。おー!(写真は最近の国東橋付近で、河口まで300mくらいである)。

田深谷の稲刈り始まっています2009-08-25 02:39:15
 田深谷では8月中旬から稲刈りが始まっています。地球に届く有効な太陽エネルギーの約1%が、緑色植物によって有機化合物という生命の素になっています。農業、特に米造りはこの太陽エネルギーを稲に貯えて人間の食糧というエネルギーに変換するシステムです。日本には2100年前の弥生時代に稲作技術が伝わりました。営々と続いた田んぼシステムは、日本の不利な土壌、気候問題をクリアしてお米を日本人の主食とした、優れた人工栽培装置です。 水稲とは水田で栽培する稲のことですが、この水田への給水システムはすばらしいものになっています。田深谷の中央部を流れる田深川は一本で、ここにいくつかの堰が造られて谷全体にまんべんなく排水されています。かっての水田にはすべて名前がつけられて、どこの堰からの水かが明確でした。いまでも同じシステムで運用されています。さすがに名前は消えているようですが、基本は変わっていません。そうです日本では水稲が命です。 陸稲は畑地で栽培する稲です。 平成19年の収穫量比較では水稲が870万5千トンに対して、陸稲は9千トンで水稲の約0.1%です。作付面積とは田畑に作物を植え付けた面積のことですが、上図は農水省がまとめたデータでは作付面積が年々減少しています。農業の危機がここにあります。なんとかしませんか。まずはお米を食べてください。

ユネスコ世界ジオパークネットワーク2009-08-24 03:38:15
 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の支援で設立する国際運営組織「ユネスコ世界ジオパークネットワーク」(GNN、事務局・パリ)が23日、中国泰安市で開催中の会議で発表した。今までは18ヶ国、58サイトが登録されていたが今回、日本の洞爺湖・有珠山(北海道)、糸魚川(新潟県)、島原半島(長崎県)の3地域の登録が決まった。「地質分野の世界遺産」とも位置づけられる世界ジオパークで、日本の登録地が誕生するのは初めてである。今回、日本以外にも中国の2地域の登録も認められ、世界ジオパークは19か国63地域となった。「世界ジオパーク(世界地質公園)」は世界的に価値が高い火山や地層、地形などを国際的に認定する機関として発足した。中国泰安市での開催は4回目である。世界ジオパークはユネスコの生態・地球科学部門を事務局に2004年に設立された「世界ジオパークネットワーク」が認定する。地質学的な価値に加えて「自然観察路やガイドブックの整備」「自治体、研究者、NPOなどとの連携」なども認定基準に含まれている。ジオパーク認定が観光振興につながる例も世界中で出ている。世界遺産に比較すると規模はちいさいが地震国に日本にはこちらの方が価値があるかもね。自らが住む地域の地域資源は自らが探すことが重要であることを今夏のジオパーク認定がしめしている。まずはめでたい。さて次のリソース探しますか!

(写真は糸魚川ジオパーク24ネットワーク)

羽田D滑走路2009-08-21 00:44:15
 わが国東半島には大分空港があり、東京圏、大阪圏とは1〜2時間で往来が可能です。国東半島は空港・航空には大変お世話になっていますので、相手先の大羽田の今を紹介します。2010年秋にはさらに大国際空港に進化します。
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国土交通省は、我が国空港ネットワークの拠点空港として極めて重要な位置を占める東京国際空港(羽田空港)において再拡張事業を進めています。
平成22年秋の供用開始に向け、その中核となる4本目の滑走路(D滑走路)を国の直轄事業として整備しており、24時間365日の昼夜連続施工の中、現在、約70%が完成しています。
この整備のうち、多摩川の流れを妨げない桟橋構造とした桟橋部においては、平成20年1月9日に第1基目のジャケット据付を開始し、週2基程度のペースで据え付けを続けた結果、 平成21年6月15日(夜間)に、桟橋部ジャケット第150基目(総数198基)の据付を完了しました。今回のジャケット据付により、ジャケット据付の進捗率は76%に達するとともに、据え付けたジャケットの上部桁(空港基盤面)の面積は、約36万m2、東京ドームの約8個分に相当する広さになりました。
また、現在の羽田空港と新空港島を連結する連絡誘導路部においては、平成21年6月中に第40基目(総数40基)となる最後のジャケット据付を予定しています。

(参考:D滑走路の整備効果)
このD滑走路が完成すると、年間の発着能力が30.3万回(H19.9時点)から40.7万回に増強され、発着容量の制約の解消、多様な路線網の形成、多頻度化による利用者利便の向上をはじめ、首都圏空港の機能が一層強化されます。
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/haneda/haneda/haneda_saikaku/kisya/pdf/20090618.pdf
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現在、工事の見頃!展望施設(D滑走路展望台)があり。
お問い合わせ先:03-6426-7211(D滑走路展望台)

江口章子(あやこ)2009-08-20 04:02:15
江口章子(1888-1946)は豊後高田市香々地の人である。豊後高田市見目・リゾート長崎鼻と千葉県柏市の増尾少林寺に歌碑がある。
「恋のない世になにがあるでせう」という直情径行、情熱の詩人、江口章子(あやこ)が柏市増尾の広幡八幡宮近くの墓地にある辻堂に住んだのは、大正末期 から昭和の初めのことである。章子は、北原白秋の二番目の妻だが、すでに離婚しており、増尾に住んだのは、京都大徳寺の僧侶中村戒仙との恋を得て、戒仙が 松戸の自坊栄松寺に帰ったのを追いかけて来たのだった。戒仙は、面倒を見て増尾の辻堂に住まわせたのである。7歳で増尾少林寺の養子となっていた戒仙との 縁で少林寺境内に、写真のような章子の歌碑が建てられている。管理人はこの近くに35年近く住んでいたが、この碑のことは知らなかった。不明をわびたい。
江口章子は、白秋との別離後、男性遍歴、放浪もするが、この間、詩文集『女人山居』(1930年)、詩集『追分の心』(1934年)を刊行る。1931年精神を病み、1937年 には脳溢血で倒れ、障害が残る。晩年は脳軟化症を患い、京都の施設から故郷香々地町に戻り、一人闘病の末、死去する。一族の墓には章子の名は見当たらないというが、香々地町作成「江口章子」が発行され、香々地小学校校区のサイトには彼女の事績を紹介、顕彰されている。女の生き方が、「自己責任」に拠るとは言えなかった過酷な時代の、とくに文学に目覚めた江口章子の一生を、白秋に出会った以降の半生を、女性の生き方として見るとどうなるのだろうか。かつて瀬戸内晴美の「ここ過ぎて―北原白秋の三人の妻」にも紹介されている。章子の故郷、大分県香々地町の長崎鼻に1978年建立された歌碑には、次の一首が刻まれている。
ふるさとの香々地にかへり泣かむものか生まれし砂に顔はあてつつ
やはり故郷とは帰るところであり、激しく生きたからこそ暖かく迎えてあげたいものだ。周防灘を望む長崎鼻はやさしく章子を包んでくれている。
(写真は 藤掛欣也さんの提供

3つの挑戦2009-08-19 04:15:15
「日本復活になぜ情報通信が必要なのか」というタイトルがついた情報通信白書が発表されている。構成は、

第1章:情報通信と成長を結ぶ経路

第2章:世界経済の変動と日本の情報通信

第3章:日本復活へ向けた3つの挑戦

である。

○情報化「投資」を飛躍的に高め、情報通信が触媒となって事業者間や消費者の「協働」を促し、信頼できる「電縁」社会を築く必要性を検証している。そこで3つの挑戦として、

1.Investment:情報化「投資」を情報通信を利用する産業を中心に飛躍的に高めると、2010年代の実質成長率を1%近く底上げできる可能性が大。

2.Collaboration : 公的サービス分野で高齢者の情報通信利用が低い傾向。情報通信が触媒となって異業種や生産者・消費者の「協働」を促し、国民目線のワンストップサービスを演出することが必要。

3.Trust:情報活用能力を高め、地縁・血縁に「電縁」を重ねた「顔の見えるネット社会」を作ることで不安低下に役立つことを期待。

→「ご縁」のある社会大歓迎。ごもっともです。総務省さん!国民目線のワンストップサービスとはどういう意味ですか? 総務省さん。

 上図は諸外国に較べて情報投資がおそまつな日本の姿です。情報分野で日本は遅れました。反省します。

毛利空桑2009-08-18 06:07:15
 毛利空桑(1797-1884)は大分市鶴崎の出身である。明治17年(1884年)に88歳で没。旧宅及び塾跡、並びに、生誕地である鶴崎常行にある墓は、大分県の史跡に指定されている。また、1963年(昭和38年)に旧宅及び塾跡に隣接して建てられた遺品館は、1985年(昭和60年)に改築され、毛利空桑記念館として整備されている。鶴崎駅から歩いて10分ぐらいの大野川の左岸にある。 14歳の時に、脇蘭室に入門、のちに日出の帆足万里のもとで儒学を学び、後には熊本藩の藩校時習館、福岡藩亀井昭陽にも学んだ。28歳で帰郷して、自宅と塾を建て、自宅を天勝堂、塾を知来館と称した。知来館の門弟は1,000人を超え、空桑が説いた尊皇思想は明治維新にも影響を与えた。吉田松陰や斉藤監物らも塾を訪れ、空桑と意見を交わしたと言われる。 空桑の父太玄は14歳の時、熊本に赴き藩医松岡雲古について医学を学び、翌年帰郷。さらに、三浦梅園の門下生となり、 脇蘭室、帆足万里らと親しい交際があったといわれる。梅園に始まる学問の流れがあるような気もするが偶然かもしれない。
 数年前、毛利空桑記念館を訪れた際、受付にいた老人と話しを交わしたが、空桑のお孫さんであるとのことであった。明治維新後、山岡鉄舟をして「豊後に空桑あり」と言わしめた儒学者であったことを自慢していたのが記憶に新しい。空桑は自らの学問を「余、聖を 祟(たっと)び、求めて聖人の徒となる。漢、唐、宋、明の 註疏家(ちゅうそか)となるを欲せず。故に余の門、聖学儒学の称あり。」と。 山鹿素行の聖学、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学が有名である。先の空桑の言は「朱子や王陽明など後代の注釈家の学を用いず、孔孟先聖を尊び、これを学問の拠りどころとする」という意味であり、まさに古学派に属しているといえる。空桑はかなりの碩学であるが、梅園の条理学を継いだわけではない。梅園はこの時も孤独であった。

星河一天2009-08-12 17:26:15
13日(木)〜17日(月) 
天眠します。

脇蘭室2009-08-12 02:03:15
 脇蘭室(1764〜 1814)は 帆足万里の師 として有名である。 熊本藩校時習館教授。のち同藩鶴崎(現大分市)で塾を開く。速見郡小浦(現日出町豊岡) の庄屋の分家に生まれる。名は長之、通称は儀一郎。字は子善で愚山、菊園と号した。天明五年、22歳の時には安岐の三浦晋(梅園)を訪ねた。この時梅園は63歳であった。この時梅園から条理学や贅語を学んでいる。その後大坂に出て中井竹山についた。やがて帰郷し、小浦で私塾を開いて子弟の教育に当たるが、寛政三年(1791)に帆足万里が入門している。著書に「函海漁談」「鶴崎夜話」「煙霞間書」「党民流説」などがある。匿名の書「党民夜話」は文化八年に岡藩(竹田市)に始まる農民一揆(文化一揆)に関わる詳細な記録として知られる。大正五年に正五位となる。

 田口正二さんの三浦梅園によれば、蘭室はよほど梅園の寵遇を受けていたらしい。彼が同門の日出藩士井上大成に宛てた書簡がある。それは大成が攣山先生を訪ねた際に、先生が蘭室のことを大いに称揚して紹介したらしい。それに対する彼の返書である。「僕は実に愚腫犀劣な一傭人であるのに、かくも先生の寵遇を得ること忸怩として自ら堪えず、面背に汗する次第である」と述べている。

ともあれ梅園は蘭室の賢を見込んで大いにこれを愛し厚く遇していた。蘭室もまた心から梅園を尊信していた。梅園の没するに当り修齢を呼んで、没後学問上のことは蘭室を相談相手とするよう命じた。修齢はその後ずっと交誼をつづけ遺著の校訂に助力を請うている。

 脇蘭室は条理学の真髄を帆足万里に伝え、万里は「窮理通」を著したのである。(上の肖像画はOBS資料より)。

パラダイムシフト2009-08-11 05:47:15
 大きな、大きな構造変化が起きています。毎日のごとく。この変化を読み解くキーワードをあげてみましょうか。
 気候変動、情報量増加、産業転換、資源理念、新エネルギー、BRICS等主要国の変化、宗教連帯・イスラム教、オバマ大統領、高齢化、温暖化現象、金融危機、世界不況同時進行、集落の衰退、新羅万象あらゆる事が物凄いスピードで動いています。今までのことが数年後にはなくなる可能性が高いということです。例えば、かつてレコード産業や写真産業が経験したように、 自動車を中心とする産業社会は大きく変わり、情報が主役の社会になるのでしょうか。自動車というモノは見えるからいいのですが、情報といわれてもわかりません。上の図はインターネットについて総務省がまとめたデータです。

 平成20年末のインターネット利用者数は、平成19年より280万人増加して9,091万人(対前年比3.2%増)、人口普及率は75.3%(前年から2.3ポイント増)となった)。また、個人がインターネットを利用する際に使用する端末については、モバイル端末での利用者が平成19年末より219万人増加して7,506万人(対前年比3.0%増)、パソコンからの利用者は、442万人増加して8,255万人(対前年比5.7%増)となった。
 平成20年末における個人の世代別インターネット利用率は、13歳~49歳までは9割を超えているが、60代以上の世代の利用率は依然低い。また、所属世帯年収別の利用率は、所属世帯年収の小さい区分での利用の伸びが小さい一方、大きい区分での利用率が伸びており、2,000万円以上では平成19年末より9.4ポイント増加している。

インターネットを通じた情報が確実に私達の身近にせまっています。人口普及率が75%という数字はすごい値です。この値はあくまで平均的な見方ですが、地方では実感としては10%という感じですが・・・・・。
 そうです見えないところでパラダイムシフトが起きています。

高分子学者友成九十九2009-08-10 05:47:15
友成九十九(1906-1957)は高分子学者で国東町川原出身である。杵築中学、明治専門学校(現九州工業大学)機械工学科を経て、昭和2年(1927)東北大学工学部を卒業、倉敷絹織株式会社に入社。同五年、繊維素分子研究のためドイツに留学、のち高分子化学へと視野を広げた。その後、繊維素の硝化に関する研究で東京大学から工学博士号を取得。倉敷レーヨンが京都大学の桜田一郎教授の発明した国産合成織維ビニロン(ポリビニルアルコール繊維) の工業化を進めたとき、技術陣の中心となってプラントを造り、成功に導いた。ビニロンはわが国で発明開発された数少ない工業繊維の一つで衣料や産業資材に活用されている。友成と桜田はドイツで共に学んだ仲で、昭和16年、日本合成繊維研究協会(後の高分子学会)を設立した。友成は、繊維業界と官、学界の間にあって合成繊維育成の中枢的役割を果たした。

 文部科学省 産学官連携コーディネーターの梶谷浩一さんが「産学連携の源流-「ビニロン」の工業化」と題した論文の中で、友成の功績について言及していうので紹介したい。

 桜田一郎教授はドイツ留学中に、高分子学説の急先鋒であるスタウディンガー教授をはじめ、高分子科学の夜明けを開いた数多くの科学者と出会い、倉敷レイヨンから海外留学生として派遣されていた友成九十九とも運命的な出会いをした。友成九十九の著書「合成繊維読本」(表紙はビニロン粗布)の冒頭には「資源論」が展開されており、工業原料の基盤を支える資源重視の強い考えが現れている。この考えは、ビニロンの工業化を大原聡一郎社長に強く進言する重要な根拠になったと思われる。ビニロンの原料「ポリビニルアルコール」は、日本で豊富に産出する石灰石を同じく豊富(当時)な水力発電の電気を用いてカーバイト法アセチレンをつくり、酢酸を反応させて酢酸ビニルを製造する。ポリ酢酸ビニルから酢酸を外してポリビニルアルコールをつくり、酢酸は再び循環利用するので理論的には消費されない。従って、理論的には「石灰石」と「水力発電電気」と「空気(酸素)」からビニロンが出来ることになるのである。

大原聡一郎は、戦後間もない頃「物価庁次長」として国の舵取りに関わった経験から、国産資源と国産技術による産業の育成が日本にとって如何に切望されているかを誰よりも感じていた。また、ビニロン工業化技術開発の過程で、政府の低金利融資も重要な役割を果たした様である。大学で生まれたシーズをもとに産学官連携で育て上げたベンチャービジネス「ビニロン」は、桜田一郎と友成九十九と大原聡一郎の出会いと信念と高い志と天の時と地の利が偶々合致して育てたものであろう。

写真は川原に立つ友成博士の顕彰碑である。日本にとって「資源論」は重要である。

「 2009 近畿まほろば総体」2009-08-07 20:39:15
平成21年度 全国高等学校総合体育大会 「 2009 近畿まほろば総体」
2009年7月28日〜8月20日   
総合開会式 平成21年7月28日(火) 奈良市鴻ノ池陸上競技場
式典テーマ:古の都からの発信〜伝える 創る 挑む〜
総合開会式の概要
弓道・競技期日 平成21年7月29日(水)~7月31日(金)
・会場 奈良県立橿原公苑第1体育館(橿原市畝傍町51番地)
    電話 (0744) 22-6000
→すでに終了。国髙弓道部は準々決勝で敗退。
柔道・競技期日 平成21年8月8日(土)~8月12日(水)
・会場 天理大学杣之内第一体育館(天理市杣之内町1050番地 )
    電話 (0743)63-9773
◇会場への交通◇近鉄天理線「天理」駅、JR桜井線「天理」駅から徒歩1.9km
フレーフレーくにさき!!!!!

三浦海岸花火大会2009-08-07 03:10:15
 三浦半島に住む同級生のブログは連日、海鳥の生態を伝えている。6日はめずらしく花火大会の写真が掲載されたので紹介したい。本人はもちろんのこと国東半島の出身である。連日の写真を見ていると三浦鳥「カモメ」と同化しているのではないかな?と思うほどである。
お時間のある方はゆっくりご対面を!!!
——
毎年恒例の三浦海岸花火大会。 自宅ベランダからの撮影なので、電線が写り込んでいたりします^^
——
「カモメが舞う渚」三浦半島 海辺の風景
stork.exblog.jp

気骨と正義の政治家 西村英一2009-08-06 04:26:15
 西村英一は(1897-1987)は国東半島の沖に浮かぶ姫島出身の政治家である。姫島は大分県で唯一の一島一村である。姫島は古代海上交通時代は重要な拠点であった。また姫島産の黒曜石は西瀬戸地域に広く使われていた。

 西村は東北大学工学部電気工学科を卒業して鉄道省に入る。国鉄の電化に取り組み、全線電化運動を推進した。戦後、昭和21年(1946)、運輸省鉄道総局電気局長となり、東海道線全線の電化を実現した。

 退職後、昭和24年(1949)の総選挙で代議士に初当選、以来、通算11期28年間にわたって国政の場で活躍した。昭和37年、厚生相になったのをはじめ、46年建設相、49年初代の国土長官、51年行政管理庁長官となる。

49年には当時の田中首相が外遊した際、臨時首相代理も務めた。党務では、そのもの堅い性格から長らく自民党経理局長を務め、昭和54年(1979)には自民党副総裁となっている。飾り気のない清簾な政治家として知られ、直言をはばからない気骨と正義感を持ち、時の首相も親しみを込めて「じいさん」と呼んでいた。いわば国政の御意見番であった。

 管理人は西村さんがお元気な80年代に事務所を訪問したことがある。国東弁まるだしで、こちらの話にほーほーと言って受け答えしてくれて、大分空港の話であったと思うが、地元の意見集約に苦労したという話は記憶がる。当時管理人も東京にいたが、西村先生といえば、どこでも気骨のある政治家として知られていた。時代の背景が違うとはいえ「気骨、気概」の「気」のある政治家がほしい。政治屋はいらない。

数学者末綱恕一2009-08-05 06:14:15
 末綱恕一(1898-1970)は国東市武蔵町𠮷広生まれである。 家は代々医者で、儒学者、甲原玄寿の血を引く家系である。出生時は母乳を吸う力もないほどに未熟児であったが、5歳頃には、すでに近所の者が舌を巻くほどの神童ぶりを発揮していたという。杵築中学校に進学したが当時の校長は、三浦梅園の研究家でもある藤井専随であり、毎週一時間の修身の時間に、末綱少年らを前にして梅園の学問や哲学の講話をしていた。一高、東大理学部数学科へと進んだ。大正十一年三月の卒業の際には、恩賜の銀時計を拝受した。卒業と同時に、九州大学工学部講師として赴任。大正13年5月には、母校東大の理学部助教授として戻った。ドイツのゲッチンゲン大学に単身で留学。その問、特に約数関数の問題を研究多くの成果をあげている。3年10ヶ月の留学を終え、昭和6年3月に帰国。その後は、研究だけでなく、整数論、代数論、確率論などの講義を担当し学生の教育にも力を注いだ。昭和10年4月に教授に昇進。その頃から、氏の関心は『数学基礎論』の研究に向けられ、以前から造詣の深かった仏教や西田哲学の思想を取り入れて、独自の基礎論を展開した。一般的には、数学と哲学や仏教は、互いに相容れない異質なもののように思われるが、氏は、それらを体系的に統合していたので、単なる数学者ではなく、哲学的数学者であったといえよう。昭和18年には学術研究会議会員となり、さらに、22年には、日本学士院会員に選ばれも、重鎮として活躍し、学会発行の研究雑誌の編集やシンポジュウムの開催などに尽力した。34年東京大学名誉教授の称号を受けている。このように氏は、中央の学界において常に重き位置にあり、多忙な毎日であったが、郷里の老母への孝養も決して忘れなかった。終戦後の交通事情の悪いときでも、汽車を乗り継ぎ、長い道のりを歩いて郷里に帰った。中武蔵小学校の児童達に「0」について講話をしたこともあった。氏は、東大退官後、ただちに統計数理研究所の所長に迎えられ、亡くなるまでその要職を務めたし同研究所の設立にも関与したのであるが、同研究所が飛躍的に発展したのは、氏が所長になってからであり、その指導力によるよころ大であるといわれている。また、昭和37年からは科学基礎論学会の理事長も努めた。
 三平方の定理を名付けた東大の数学者としても知られて「ピタゴラスの定理」にかわる何かいい名前はないかと聞かれ、『三平方の定理』が内容をよく表していて、近代的な感じではないかと提案し、採用になりました。
退官後の仏教の研究に関係し「科学技術の進歩をよく方向づけることのできるのは仏教ばかりであろうと、私は絶大の期待をかけている。」と発言しているようだ。
「キリスト教にはいくつかのドグマがあって、到底今日の科学と相容れないところがありますが、仏教は科学を包容することができる筈であります。この貴重な仏教を、我々が滅亡させてはならないのであります。」

 数学者にしてはめずらしい科学技術と宗教の融合を研究して、発言しているのは特筆にあたいする。神仏習合の地に生を得て、数理の根底に仏教の原点を見つけたのであろうか。ご本人が生きていたら聞きたいところだ。ここにも国東の偉人がいる。

くにさき古代祭り2009-08-04 04:14:15
 古代の田深谷を代表する祭りが開催されるようです。

——-ポスターより——

弥生のムラ〜古代に集い、古代を遊び、古代に学ぶ〜。

日時 平成21年9月13日(日)

場所 弥生のムラ 安国寺集落遺跡公園 入場料無料

 古代の文化を今に伝える弥生のムラ。その遺跡は、未来に残すべき遺産であると同時に、古代からの知恵と身近な技術・化石燃料に頼らない生活を振り返り学ぶという重要な役割を持っています。

今回開催する音楽!体験!感動!『弥生のムラ・くにさき古代祭り2009』は、古代の人々のくらしを感じ、体験し、自然や環境の思いを深めてもらおうと企画しました。国内各地からこの主旨に賛同してミュージシャン等を集め、音楽と芸能を演奏します。また、さまざまな体験を通じ、自然環境・地球温暖化対策などに思いをめぐらせて頂きます。

———————————-

参加しちょくれ!

採石して天にいたるー大嶽山採石場2009-08-03 02:54:15
 田深川の真ん中の支流に横手川がある。そのまた支流に高良川がある。高良地区の集落には「ホーヤク祭り」がある。6月17日(旧暦)の夏祭りの別名。司祭は近くの神宮寺住職で、五穀豊穣・無病息災・安産祈願、読経のとき、柏手を打つ、参拝するという異様な風景である。当番の世話人が、座元の家に集まり、お供えのだんごをつくるが、これが男性、女性の性器である。詳しいことは見ての楽しみであるが、農耕と性器信仰が残ったものと考えられている。

 高良川の源流は大獄山の東部山塊であるが、ここに上図の採石場がある。大獄山は両子山の東南東約4Km付近にあり、記録では1980年(昭和55年)から操業開始とあるがそれ以前から採石していたと思われる。原石は安山岩類で、両子火山系の噴出物で珍しいものではないが「自然石・くにさき玉石」として製品化されて販売されている。急峻な山岳地形にかくれて地上からはわからないが、グーグルの航空写真地図で上空からみると一発でわかる。「ホーヤク祭り」の奇祭と採石場という組み合わせには違和感を感じるが、やむを得ないことなのか。このスケッチ図は管理人の先輩で故人が書いたものであるが、現地の感じがよく出ている。

麻田剛立2009-07-31 03:09:15
 麻田剛立( 1734〜1799)の本籍は武蔵町麻田であるが、父綾部絅斎が麻田村より出て杵築侯に仕えたため居を杵築に移し、絅斎の四男として杵築で生まれた。剛立は幼少より頭脳明断で、人々は神童と称していた。 明和8年(1771)38歳の時、事情があって脱藩し、はじめ江戸に行き、ついで大坂に来た。名も麻田剛立と改め、本町4丁目に居を構え、医術で生計を立てる傍ら、天文・星暦を究め、私塾「先事館」を開いた。各種の観測器機をつくり、実測に重きをおいた西洋暦学で名を馳せた。多数の優秀な弟子を育

て、ケプラーの第三法則と同じ法則をケプラーとは全く独立して発見した。惑星運動の第3法則とは、「各惑星の太陽からの平均距離の3乗と公転周期の2乗の比は惑星によらずー定である」というもので、麻田剛立はこの法則が天文学の定理としてまだ日本に伝来する前に、この関係式を発見していたという。ドイツのケプラー(1571〜1630)は師の長年に亘る火星の観測記録から、苦労して惑星運動の三法則を打ちたてたが、これがニュートンの万有引力の法則の発見(1687)につながっていくのである。剛立も地動説を信じ、惑星の楕円軌道説も発見していたとされる。弟子にのち幕府天文方となる高橋至時(よしとき)や間長涯(はざまちょうがい)、山片蟠桃(やまがたばんとう)らがいる。剛立は寛政11年(1799)、66歳で大坂に没した。

麻田の数々の功績は後世に認められ、今では月面クレーターの一つに「クレーター・アサダ」という名前がつけられています。アインシュタインやケプラーといった大科学者たちと同じように。また、伊能忠敬は麻田剛立の天体観測技術を使うことで、高度な測量を行うことができました。麻田は梅園の11歳年下ですが、天文に関しては麻田が先生でした。梅園は自分の条理学を天動説を基本に据えて展開しましたので、麻田から地動説を聞きながらみずからの宇宙観を変えることはしなかったようです。宇宙観についてはこれからも「田深谷」で論究していくことになるでしょう。

 麻田はこの国の科学史の中で厚く、最大級で評価しましょう。

重光 葵2009-07-30 02:24:15
 重光葵(しげみつまもる、1887年〜1957年)は国東市安岐町の人である。生まれは大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(杵築市重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。卒業後、外務省に入り、満州事変、上海事変などにかかわり外交の手腕を発揮する。大戦の敗北を受けて、1945年(昭和20年)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。同日、終戦の詔書が発せられた。9月2日、東京湾の米艦ミズーリー号上で降伏文書調印式が行われ、日本側主席全権重光外相。全権梅津美治郎参謀総長と連合国軍最高司令官閣下マッカーサー元師との間に、降伏文書が調印された(写真はミズーリー号上の重光全権である)。

 戦後は政界入りして、大分2区から出馬、国会議員となり、日ソ交渉、国連加盟等に活躍した。狭心症の発作で湯河原の別荘で69歳で亡くなったが、その前に国東半島を一周している。多忙な仕事が死を早めたのではないかと言われた。「欠点がないのが欠点だと」言われたぐらい真面目な人であったらしい。別府で保養しているとき郷里を訪ね朝夕墓参したとある。国東海岸と題して「国東の東の海に上る月背負いて帰る奈多の松原」の歌がある。

 重光葵は時代の変わり目に排出した正真正銘の国東もんである。郷土の誇りにしたい。

岐部与平さんと国東町史2009-07-29 08:29:15
 岐部与平さんは昭和37年から昭和48年の3期12年間町長を務めた人である。昭和46年大分空港の開港など国東半島が高速交通時代の一翼を担う時代でもありました。ここで紹介するのは昭和48年8月発行「国東町史」である。本編884ページ、資料編225ページ、布表紙製本全体1109ページの大冊である。国東町52年の軌跡のなかでも偉業である。編集兼発行者は国東町史刊行会代表者岐部与平となっている。

第一編観光くにさき、第二編地誌、第三編宗教、第四編政治社会、第五編産業経済、第六編教育分化、第七編文化財、第八編人物、資料編の構成となっている。

 この大冊の冒頭に「観光くにさき」を持ってきたのがすばらしい。プロローグを紹介する。くにさきの地域振興・観光の原点が名文で語られている。

*————-

島から島の間を縫うて、ここ周防の国は、佐波川の海に注ぐあたりにしばし船足を休めた船団は、赤石鼻を過ぎると、舶を南に向けて、ひろびろとした海原へと乗出した。白帆に映える陽の光、沈むに早い日の脚にはや秋のけはいが感じられる。都を出てから重ねる旅の船路も長い。思いきり大地を踏みしめ、士気の高揚もはからねばと―先頭の、ひときわ大きな船、その船のへさきに、小手をかざして水平線を眺め入る偉丈夫が捕えた陸地の影ー高い峰を取巻く山々、左右に広がきる陸地は、近づくにつれ、奥へ奥へ脈打っている。

‘’あれに見えてきたは、国のさきにちがいない。はや九州は目の前であるぞ‘’

偉丈夫は左右をかえりみて、安堵の様子、これが史上伝える征西途上の景行天皇である。

国のさきについては、いろんな漢字が充てられているが、国のさきであることは、むかしも今もかわりがない。瀬戸内海を通る船は、国東半島の姿を眺めては、九州の近きを知り、あるいは安心し、あるいはなつかしみ、さまざまに心を寄せるのである。

われわれは今、半島の東端に立ち、両子や文珠の山々を眺めながら、悠久何万年のむかしから、縄文・弥生時代の遺跡や、数々の古墳を今に残しつつ、大自然と瞑合同化して生い出でた信仰心に、大陸から伝来してきた思想と技術を融合せしめて、築きあげた六郷満山文化が、この国東の秘境に、撩乱と花咲いた豪華絢爛の跡を、一笠一杖の相(すがた)もてめぐり歩き、これらを創り、これらを今に伝え来た、名もなき里人たちの心にふれようとする―そこに国東探訪の姿がある。

陸の孤島に近代化の波がうち寄せてきた。竹田津と徳山との問には、フエリーボートが通い、武蔵の浜に空港が出現して、東京と八十分で結ばれた。その空港と大分別府とは、ホバークラフト・特急バス・タクシーの往来日夜をわかたず。国道213号線がオレンジの花咲く海岸を走れば杵築。国東・竹田津を結ぶ半島縦貫の大規模農道の完成も近い。県

道町村道も舗装が進み、車の交通は自由である。観光業者も活躍を始めた。しかし国東には、まだ汚れなき大自然の姿がある。野辺の仏、岩陰の小祠に耳を傾けるとき、心耳を徹して太古の私語に接するのである。

生命は流れの中にある2009-07-28 07:55:15
 福岡紳一は農学博士で分子生物学者である。 サントリー学芸賞を受け、60万部のベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』の著者である。サブタイトルは「生命はなぜそこに宿るのか」。2006年の発行で本屋の店頭に積まれていたので記憶に新しい。タイトルからしてむつかしいので実は何故店頭かと不思議に思っていた。『生物と無生物のあいだ』は、DNAの構造をめぐって分子生物学がどんな発見をしてきたか、科学者の人間くさいエピソードをちりばめいて、シロウトにも分かりやすい本である。現代科学の最先端で何が起こっているか、次々に謎が解かれるミステリーみたいに読者を楽しませながら、生命とは何なのかを考えさせてくれるところに売れる原因があったのでしょう。管理人は2008年に買って読んだので遅い方であるが、生命のあり方について共鳴するところが多い。「私たちには何か重大な錯誤と見落としがあったのだ。重大な錯誤とは、端的にいえば‘’生命とは何か‘‘という基本的な問いかけ対する認識のナイーブさである。そして、見落としていたことは‘’時間‘‘という言葉である。」

 生物には時間があるという基本認識と戻ることの出来ない不可逆性があるということは「生命は流れの中にある」といえるのでしょう。梅園条理学と通じる視点がここにある。

宇宙図2009-07-27 05:05:15
 玄語は梅園さんが死に際まで更新を続けた一大万物生成詩ですが、梅園条理学を説明するためにいわゆる玄語図を作成しました。執筆の段階に応じて書き直しや追加・破棄などがあるのですが、辛島詢士さんや北林達也さんの研究により174図が判明しています。玄語本文の執筆と連動して作業が進められたようです。上図は玄語第四冊目「地冊没部天界宇宙の図」です。玄語図は例外がありますが円形が基本です。平面図ではなく球体と考えてください。しかも地球でいうなら北極点から赤道面をみるような見方です。したがって円の中心は南極点になります。

 梅園さんは梅園思考ワールドを円の中に閉じ込めて表現しようとしたわけです。この宇・宙図ですが、現代語でいう宇宙(スペース)という意味ではありませんよ。7月21日の「時間=宙、空間=宇」です。この宇宙図の読み方としては‘’宇と宙とは没して(見えなくて)、時間(宙)は縦の流れのなかにあり、世界に通じている。また、空間(宇)は横の繋がりの中にあって、塞がっている。‘‘となります。あくまでここの管理人の読み方であることことわっておきます。中円が二重線になっていますが、これはこの線上のアイテムはひとつの世界を構成していることを表しているのでしょう。時間と空間が一つの世界を構成していることを梅園さんはすでに考えていたのです。アインシュタインさんもびっくりです。

 250年前、漢語世界の中で梅園ワールドをどう表現したらいいのか相当苦労したことが多くの玄語図から推察出来ます。今に至るまで玄語図の解説本が出来ていません。

「経・緯」については「条理は一一なり。分かれて反し、合して一なり」要するに、一元気の分化・統合の作用が織りなす経と緯の関係が、条理そのもの。まさしく「経緯は条理の大綱」であると。梅園は言っています。宇・宙図は梅園ワールドを理解するゲートウエイです。

邪馬台国と国東半島ーふたかみシンポ2009-07-24 06:16:15
 「奈良からの風」さんが邪馬台国情報を寄せてくれました。

 国東半島が邪馬台国時代、海上ルートの重要な拠点であったのではないかという観点で興味があります。西瀬戸地域でこの種のシンポジュウムを企画しても良い。

 香芝市二上山博物館(同市藤山1)は19、20日両日、市ふたかみ文化センター市民ホールで、「邪馬台国時代の西部瀬戸内と近畿」と題したシンポジウムを開催。3世紀の遺跡から出土した考古学資料を通して、石野博信館長や6人の考古学研究者が、伊予(愛媛県)、豊前・豊後(福岡県東部から大分県)、安芸(広島県西部)、周防・長門(山口県)と呼ばれた西部瀬戸内地域と畿内の関係を探る。

 19日は午後1時~4時40分。山口大埋蔵文化財資料館助教の田畑直彦さんや、桜井市教委文化財課主任の橋本輝彦さんら4人が基調講演。20日は午前9時半から、俳優で日本考古学協会会員の苅谷俊介さんや、石野館長ら3人の基調講演がありました。午後1時からは、「邪馬台国時代の西部瀬戸内と近畿」をテーマに、6人のパネリストによるシンポジウムが開かれました。
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ふたかみ邪馬台国シンポジウム資料集まえがき(抜粋)
「邪馬台国時代の西部瀬戸内と近畿」開催に際して
西部瀬戸内には伊予・豊後・豊前・長門・周防・安芸の旧6 ヶ国がある。従来、旧国名を用いて邪馬台国の大和と対比してきたが6ヶ国ではタイト長くなりすぎるため地域名をとることとした。
西部瀬戸内は、大陸・半島の文化が瀬戸内経由で大阪湾岸に到来するときの「海道」玄関口に当たる。長門・竹島古墳には魏の正始元年(240 年)銘を刻んだ銅鏡があり、三角縁神獣鏡をもつ豊後・赤塚古墳の墳丘には近畿系の3世紀の飾壷がある。
他方、大和・ホケノ山古墳くびれ部の埋蔵施設には伊予系の大壷が副えられ、纏向勝山古墳の周濠には豊系大壷片が目立つ。大和にとって、中・韓諸国と交易のためには日本海・瀬戸内海・太平洋のルートあるが、幹線は瀬戸内ルートであろう。しかし、そこには強力なクニグニがあり、航海に必要な物資の調達は容易ではない。3世紀大和はどようにしてルートの確保に努めたのか、地域のクニグニは大和の外交にどように対処したかをクニグニの代表者と共に考えたい。今回も貴重な多くの写真資料をよせて頂いた各機関や発表者の方々に感謝し、実り大きことを期待します。

現代語訳『玄語』の紹介2009-07-23 07:49:15
 タイミング良く狭間さんの上記本2巻目が出版されたので紹介する。内容は小物物部&本宗の現代語訳である。2009年7月15日刊。1巻目は小冊物部&本宗。 2009年2月15日刊。(A5版)。

はしがきより一部抜粋

『玄語』は「例旨」「本宗」「天冊活部」「天冊立部」「地冊没部」「地冊露部」「小冊冊物部」の全八冊から成りますが、本書にはそのうち「例旨(付言は省略しました)と「小冊人部」を収めました。「例旨」で言う、『玄語』はどこから読んでもよい、に従って現代人に最も共感を呼ぶと思われる「小冊人部」から始めたわけです。以後「小冊物部」と「本宗」(第2巻)、「天冊活部」「天冊立部」(第3巻)、「地冊没部」「地冊露部」(第4巻)と刊行する予定です。

 訳者の狭間久(はざまひさし)さんは1938年(昭和13年)、大分県臼杵市生まれ。 1960年大分合同新聞社入社、文化部長、論説委員長。2008年大分合同新聞社退社。 「三浦晋 梅園の世界」等著書多数。梅園学会の会員。

 著者は大分県地元にあって梅園研究家と知られる人物である。玄語を現代語訳と銘打っての出版ははじめてである。玄語がはば広く理解されるきっかけになれば良いと思う。

玄語とは何?2009-07-22 08:39:15
 タイミング良く狭間さんの上記本2巻目が出版されたので紹介する。内容は小物物部&本宗の現代語訳である。2009年7月15日刊。1巻目は小冊物部&本宗。 2009年2月15日刊。(A5版)。

はしがきより一部抜粋

『玄語』は「例旨」「本宗」「天冊活部」「天冊立部」「地冊没部」「地冊露部」「小冊冊物部」の全八冊から成りますが、本書にはそのうち「例旨(付言は省略しました)と「小冊人部」を収めました。「例旨」で言う、『玄語』はどこから読んでもよい、に従って現代人に最も共感を呼ぶと思われる「小冊人部」から始めたわけです。以後「小冊物部」と「本宗」(第2巻)、「天冊活部」「天冊立部」(第3巻)、「地冊没部」「地冊露部」(第4巻)と刊行する予定です。

 訳者の狭間久(はざまひさし)さんは1938年(昭和13年)、大分県臼杵市生まれ。 1960年大分合同新聞社入社、文化部長、論説委員長。2008年大分合同新聞社退社。 「三浦晋 梅園の世界」等著書多数。梅園学会の会員。

 著者は大分県地元にあって梅園研究家と知られる人物である。玄語を現代語訳と銘打っての出版ははじめてである。玄語がはば広く理解されるきっかけになれば良いと思う。

「 時はこんこん、処はおうおう」2009-07-21 09:09:15
三浦梅園(1723-1789)は国東市安岐谷富永の出身である。江戸時代中期の科学哲学者である。全生涯をこの地で独創的で包括的な科学哲学大系の構築に費やした。

 「田深谷のくらし」では梅園の主著である「玄語」を中心として梅園学の基本理念にせまっていきたいと考えています。難解と言われる玄語ですが分かり易く解説してみたいと考えています。

まずは次のふたつのフレーズ(上図の青い傍線がある部分)の紹介。

時は則ち宙なり衰衰として移る(じはすなわちゅうなり、こんこんとしてうつる)、処は則ち宇なりおうおうとして住す(しょはすなわちうなり、おうおうとしてじゅうす)

梅園さんは万物が存する世界が時間「梅園語では宇」と空間「梅園語では宙」から構成されていて常に流れているのだと認識していました。

こんな考え方から「 時はこんこん、処はおうおう」という言葉が出て来たのでしょう。玄語の中にはこういう表音文字がよく使われています。図に見られるようにここだけでも10ヶ所あります。表音文字と時間=宙、空間=宇というような梅園語(一語一義)を理解すれば玄語を読解する手がかりになるのでしょうか。

 梅園さんはこの世界が時間と空間の流れの中にあるという現代物理学と同じ宇宙観を持っていたことになるのでしょう。江戸時代中期という時代背景ー徳川幕府吉宗の時代ですよ。あーと驚く為五郎さんです。はい!

こんこんとは「水の盛んに流れてつきないさま、ものごとのつきないさま」、おうおうとは「ところどころに物事があるさま、あちこち」

一結杳然2009-07-10 04:28:15
7月11日ー7月20日夏眠します。

吾輩は・・・2009-07-09 02:29:15
「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病やみのような咳(せき)をした」 「起し得て突兀(とっこつ)ですね」と寒月君がほめる。 「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居を する」 「なるほどこりゃ天然居士(てんねんこじ)以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。 「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有ってい る」 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」 「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」 「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」 「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」 「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」  主人は一結杳然(いっけつようぜん)と云うつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はま だあとがある事と思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、云わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと主人は軽(かろ)く 「うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。

過疎化とブロードバンドサービス2009-07-08 08:38:15
 大分県の過疎化率は88.9%で全国ワースト2です。ワースト1は島根県90.5%です。全国合計では41.1%の数字なので、90%は相当なものです。大分は住みにくいにですかね。過疎化の原因はなんでしょうか。これから真剣にこのコーナーでもとりあげていきましょう。さて、過疎とブロードマンドサービスの関係ですが、2008年12月末におけるブロードバンドサービスの契約数は3,011万となり、初めて3,000万を超えたようです。 ブロードバンドサービスには光ファイバー回線を使うFTTHアクセスサービス48%、 電話回線でネットワークに接続するアクセスサービス DSLアクセスサービス39%、ケーブルテレビ回線のCATVアクセスサービス14%、等がありますが 、大分県では22万件の契約数です。これを多いと見るか少ないとみるか難しいところです。九州では福岡、熊本についで大分は多いのですが、全国的には九州は少ない。国東市は22年度末までには全市でブロードバンド環境の整備が完了するようですね。都市部ではアクセス手段の選択が可能ですが、国東の田舎ではケーブルテレビ回線だけですから選択の余地はありません。アンテナ、チューナーで地デジ対応かハイビジョンテレビを買うか対応をせまられています。国東半島の各谷では情報受け入れ体制準備中です。深刻な過疎化を救う手段としてケーブル事業は貢献できますでしょうか。一度は消えた電器屋さんが再び出店したのは地デジ対応のため?問題はストップ過疎化!(図は総務省作成)

水稲民族2009-07-07 06:55:15
「水稲(すいとう)民族」は長峰美和子が昭和49年(1974)処女出版した歌集の表題である。田深谷での農作業を通じての歌は故人石川一成が「自愛と自虐の相克」の中で詠まれたもので、農労働のはげしさを、悔しさを初めて形象化したものであるとしている。

 今日この頃の田深谷の夕映えの風景を詠んだような

「てのひらほどの水田いずれも夕映えてこの峡を一生出づることなし」

のこの峡は今もそのまま。人は変わっても風景は変わっていない。

 平成13年「原始国東幻想」が合同歌集として発表されている。

「天の神・地の神・火の神・水の神 懼れ虔めり縄文の族」

 田深谷の原風景は縄文・弥生の時代から3000年の時を越えても変わっていない。長峰は田深谷を詠むたぐいまれな語り部で、今でも健在である。

 同じく歌人の山本保はかって「古の流転の民がいひけらく久にの果てなるここは国東」と詠んだが、果てなる国東よりは水稲民族の地と言った方が時空間では会う。

 水稲民族という命名がユニークである。水稲とは逆に陸稲があるが陸稲民族ではさまにならない、やはり「水稲」でなければならない。国東半島を理解するキーワードである。

ペトロ・カスイ岐部と187殉教者2009-07-06 08:16:15
 ペトロ・カスイ岐部(1587-1639)は国東市国見町岐部の人である。 ペトロ・カスイ岐部と187殉教者は、2008年11月24日に長崎市で行われた列福式で福者に列せられたキリスト教徒であり、いずれも、1600年代に徳川幕府の禁教令により殉教した。福者はカトリック教会における列聖の段階で聖人(神の僕→尊者→福者→聖人)になる前の段階である。列福を祈念したミサが全国で開催されている。その広がりは米沢、京都、雲仙などにおよぶ。

ここの管理人はカトリック教徒ではないが ペトロ・カスイ岐部が出生した国東半島住人の一人として祈りをささげたい。出来れば声をだして読んでいただきたい。
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ペトロ・カスイ岐部神父ほか187人の列福を求める祈り
いつくしみ深い神よ、主の僕、ペトロ・カスイ岐部神父ほか187名は、主キリストへの愛と同胞の救いのため、いかなる苦しみや労苦にも屈せず福音を伝え、ついに殉教の死を遂げられました。かれらが蒔き、己が血でうるおした種に豊かな実りをお与えください。
また、御いつくしみによって私たちの祈り求める恵みをかなえ、かれらを一日もはやく福者と仰げるようにしてください。私たちも、殉教者の模範にならい、不屈の精神をもって、忠実に主の道を歩み、自分のすべてを神への奉仕と、同胞の救いのために捧げることができるように導いてください。
私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。
(カトリック中央協議会 殉教者列福調査特別委員会)

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ロゴの説明:ロ ゴ全体は日本(「JAPAN」の「J」)と「舟」を表しています。下にあるラテン語「ペトロ岐部と187殉教者」の文字部分は「波」をイメージし、福音が 宣教師たちを通じて日本へもたらされたこと、そして、日本の教会(舟)が神の国の完成に向かって海原を進んでいる姿を象徴しています。
上方の白抜きの円はイエス・キリストの聖体を表わすと同時に、無力(0=ゼロ)な赤子の姿でこの世に来られた神であるキリストの受肉の神秘、受難、死、そ して「無限」を意味しています。この「無限」は、永遠の命、完全な命である復活にもつながっています。そのイエス・キリストの聖体を188名の殉教者が両 手で支えるように囲み、また下方中央に魚のイメージで描かれたキリストご自身が188名を支え生かしています。殉教をイメージした赤色を基調に、向かって左端に「パン」を意味する「麦」、右端に「ぶどう酒」を意味する「ぶどうの木の葉」を表現しています。パンとぶ どう酒は、キリストがご自身を捧げられた記念として行われるミサの中で使われますので、このロゴの中では、自らの生涯と命を献げた殉教者たちを表していま す。

くにさき公園(長峰公園)2009-07-05 07:53:15
 田深川の左岸、市役所の上流側にある。この歌碑公園は女流歌人である長峰さんの所有であるが一般に公開されていて誰でもいつでも散策が出来る。とりあえずご案内したい。すでに紹介の滝口武士の歌碑はこの公園にある。

若き日に葡萄作りしこの園に さくらよ匂へ大樹となりて  みわ

 昭和36年11月、当時麦畑であった10アールに、福岡県田主丸町の上野順蔵氏(日本巨峰会九州支部長)の指導により、夫長峰幹(当時県立国東農業高校国語教師)と共に巨峰葡萄の幼い苗木を定植。のち武蔵町の徳永小一郎氏の熱心な指導と巨峰会々員諸氏の助勢を得て、母園10アールを30アールに拡張。爾来20年間、曲がりなりにも「国東巨峰園」は、秋ごとに巨峰ぶどうの甘露を多くの人々に喜ばれ愛されていたが、昭和56年冬、母の老病のため已むなく全園の巨木を伐るに至った。その後は、無花果、すもも、柿などを栽培。平成10年10月7日、長峰幹他界。平成14年3月、発心して国東町のはた造園緑化秦治國氏に依頼し17アールを造成し、桜35本を定植。平成16年3月、日出町の福寿園庭匠手島一氏に依頼して記念の歌碑を建てることとなった。桜もかなりの追植を計画中にて、桜の園の完成遠からず。憶えば、かの日より40余年、とどまらぬ時の流れの中の一つの経過をここに記し、巨峰ぶどうを育てる夢と困難に立ち向かった激しいわが日々を支え、力強く励ましてくれた夫や、未熟な私にさまざまな知恵や勇気を与えて下さった人々や、今も「国東巨峰園」を懐かしんで下さる多くの人に、ましてや自然の大きく深い恩恵に感謝し、この園の桜の木の永遠なる命を祈念したい。

長峰美和子

平成16年4月吉日

この石碑は公園の奥まった一角にあり。

清流!? 田深川2009-07-04 09:43:15
 久しぶりの大雨でした。いつもは泥色の田深川がなんと青々とした清流となりました。写真は2日の午前中、堰を越える川水ですが青い色がわかりますか。昔は当たり前の青でしたが今ではびっくりものです。6月28日から7月2日までの総雨量は245mmです。大雨警報の出された割には少雨です。テレビ報道では大分北部が豪雨とありましたので、在京の息子から心配してメールがはいりましたが地元ではそれほどの感じではありませんでした。7月1日の14時ころがピークだったようで時間雨量は100ミリメートルを超えたようです。今回の経験でも、雨はほどよく降ってくれると田植えにも川の清掃にもよいのですが、天候は一般にはままになりません。そこに自然の複雑さ、複雑系がひそむのですが、有限要素法をはじめとして過去の科学思考では解くことができませんね。複雑系の科学など新しい分野も出てはいますがまだまだです。コンピューターを駆使して気象の解明などは進んでいますが総合解明が出来ていません。科学分野のパラダイム変化が必要な理由です。なんか知恵をだしていただけませんか?

 

オープンソースと「見える化」2009-07-03 07:16:15
 Firefoxの紹介は先にしたが リアルタイムにダウンロード状況を追跡可能なサイトを立ち上げている。世界中のどの国でどのくらいのダウンロードがわかる仕組みである。3日朝6時はリリース開始55時間ころだが、96ヶ国全体で872万回の記録である。トップは米国ー205万回、ドイツー106万回に続いて日本ー47万回、フランス、イギリスと続いている。その時々の秒単位の回数が表示されていて、最高は秒100回というのがある。まあすざましいアクセス数である。世界は動いているという感じである。Mozilla(このソフトの総称)は、オープンソースソフトウェアだからこその強みを活かした非常に幅広い分野での国際化を進め、70の言語でFirefox 3.5をリリースした。ようするにタダで提供しているわけだが、どうしてこんなことが出来るのか。それは「見える化」ビジネスモデルを構築出来たからに他ならない。収入の大半はGoogleの検索広告からの売り上げによるものである。費用が一番かかるソフト開発が集合知を集めるオープンシステムであり、費用がかからない。「見える化」は21世紀を先導する事業理念であり、行政・企業・社会行動など広い分野で進行していくと思われる。あなたの職場は見えていますか。あなたのまちの行政は見えていますか。「見える化」を進めましょう。

西林寺田深学校(その2) 藤原義江のこと2009-07-02 06:58:15
 藤原が西林寺に里帰りしたのは昭和43年4月13日でした。「小川宏ショー有名人故郷に帰る」テレビ番組の取材時のようだ。掲載写真はその時のものである。古川薫著「漂泊者のマリア」は藤原義江の伝記小説であるが西林寺にいたころのことも書かれている。古川も書いているが、父親のネール・ブロディ・リード、母親の坂田キク、藤原あきとの結婚と離婚、女性遍歴など義江に関係した人はさすらいの人であったと。

 数奇な人生を送った人物の幼少期、わずか2年であったが義江を預かった西林寺も大変だったろう。ここで考えるのは教育の大切さである。今では公共施設があって誰でもが等しく教育が受けられるが、当時はそうではあるまい。お寺が重要な役目を担っていたのではないか。仏教の宗派を越えた慈悲の心が社会基盤の中にあったからお寺もその役目が果たせたのではないか。

 最近の事件の凶暴さは人間が人間であることを忘れたものが多い。社会を結びつける絆が欠如したのではないか。根本的に社会教育のあり方を考える必要がある。しんどいことではある。

世界遺産とコンピューターソフトのコラボ2009-07-01 02:51:15
珍しい組み合わせを紹介します。この「田深谷のくらし」プログを見るのに使っているあなたのプラウザソフトは何ですか。エクスプローラー、サファリ、オペラなどかファイアーフォックス(fox)を使っていると思いますが、foxがバージョンアップを機会にコラボレーションしています。両者には4つの共通項ー地名と開発コード名、 人類の共有財産、 ボランティアの力、未来への夢ーがあるというのです。具体的には知床半島の森を育てる仕組みをインターネット上でつくり参加を呼びかけるというものです。
このプログのご親戚ホームページ「エアーフロント」から参加出来るようにしてあります。foxのバージョンアップは7月1日からです。参加したからと言ってなんにもありません。ご自分のインターネット環境がちょっとよくなって、知床の自然環境を守ることに精神的に参加することが出来たという満足感だけです。よろしかったらどうぞ!

二輪二条歩行型田植機2009-06-30 04:26:15
 4月から続いた田植えが終わろうとしています。ここ数日は雨が程よく降ってたんぼの水まわりもうまくいっているようです。<梅雨前線の活発化で九州北部は29日夜から30日朝にかけて大雨が降り、高速道路が通行止めになるなど、市民生活に影響が出た。記事追加します。>
 早い稲は穂高もあり青々としています。成長が早いのに驚かされます。最近の稲作はプロによる作業だと紹介しましたが、昔ながらの家内農作業も残っています。写真は二輪二条歩行型田植機です。記録によると。昭和40年代後半から製作されていて今でも現役です。中古品で10〜20万円ですから手頃です。この水田は隣接する農家のもので、親子2人での作業でした。作業能率は10アールが1時間程度ですから、事前の準備作業を除けばあっと言う間の作業です。実は田植えは一種の装置産業ですから準備が大変です。人間の意志が働かない天候との戦いでもあるわけで一喜一憂、この点は今も昔も変わりません。

 “農は国の本なり”で今でもこの国の農業予算は手厚いのでしょうが、いいお米を創るための営農指導、後継者育成などに予算は使われているのでしょうか。農家が農業で食っていけるシステムとなっているのでしょうか。疑問です。

地震と地質図2009-06-29 07:45:15
 6月25日午後11時4分ごろ、大分県でやや強い地震があった。気象庁によると、震源地は大分県西部(北緯33.4度、東経130.9度)で、震源の深さは約10km。地震の規模はマグニチュード4.6と推定される。この地震による津波の心配はない。地震報道がありました。その時の震度分布図が左にあります。震源(白い×印)を中心に九州北部が揺れたことがわかります。実はその後3回小さな揺れがありましたので、計4回です。

 さて左図は大分県の地質図です。今回の震源は日田付近で、震源の深さは10km、ということは地震と地質図はあまり関係ありません。地質図は地表付近の地質分布を表現していて深さはわからないのです。それでも岩質とか堆積状況に応じてある程度の深さの地質分布はわかります。地表の事実から立体的に地質構造を理解出来るのは地質屋さんです。

今回の場合震源付近の地質はなんでしょうか。実はこのプログの開設挨拶にかきましたが日本列島の構造に関係した地質混合体(メランジュ)です。以外と浅いところにメランジュの頭があります。それでは地表からこの頭まであるのはなんでしょうか。それが地質図に表示されている火山噴出物です。地球は生きている証拠を地震で身震いで行動します。各々方油断めさるでないぞー。地質や地震の研究に多くの人材と莫大な予算を費やしていますが、私達の生活に密着したところがさっぱりわかりません。

竹田山大光寺文化講演会2009-06-28 15:48:15
 日曜日の朝9時半、200名を越える聴衆が大光寺の堂内に集まり、軽くざわめいていた。プログラムにないお茶のはなしの後、「夢と希望と勇気と笑い」と題して坂下千端子さんの話が始まった。ご本人が2005年骨軟部腫瘍を発症したがん患者ですが、リレーフォーライフ運動(がん患者を支援するイベント)や笑いの療法士としての活動を通じて家族への愛情、娘へとの心の交流など実体験にもとずく心の叫びはすばらしい講演の内容でした。いずれ自分も死ぬんだという実体感が交流の輪を広げたという坂下さんの話は説得力のあることでした。

 この講演会は第79回を迎え、14年目ということです。「心の過疎にはならない」をモットーに多才な方々を招いての講演会は竹田山大光寺夫妻の努力があって実現できろことだと思います。年6回開催だそうですが今後とも国東半島の、豊の国の、九州のための文化振興に活躍していただきたい。昼食時間をまたいでの伝承芸能講演があり、軽食が準備されていて、参加者は誰でもごちそうになれます。本日のかけうどんのおいしかったこと。ごちそうさまでした。

「夕張夫妻」グランプリを獲得!!2009-06-27 07:45:15
「夕張夫妻」がカンヌ広告祭でグランプリを獲得!!

 23日、フランスで開かれているカンヌ国際広告祭のプロモーション部門で最高賞にあたるグランプリに「夕張夫妻」が選ばれました。

「夕張夫妻」は夕張市の離婚率が低いことからつくられたキャラクターであり、「金はないけど愛はある」がモットーに活躍しています。財政再建団体になった夕張市をPRしようと、2007年9月に製作。市が抱える膨大な「負債」を「夫妻」に掛けるという自虐的なアイデアが人気を呼び、現在はTシャツやキーホルダーなどのキャラクター商品が作られている。

 2008年大分国体用にメジロンがありましたね。国体終了後は大分県応援団”鳥”に就任して、大分県関連の様々なイベントなどに出演しているようですが、認識率は99%とか。

国東市のキャラクターは?どなたか教えてくれませんか?

滝口武士(その1)2009-06-26 06:27:15
 滝口武士は国東市武蔵町手野が生んだ詩人である。明治37年〜昭和59年、80歳没。 大正13年大分師範学校卒業と同時に渡満、旅順師 範学校研究科を経て教員となる。同年、詩誌『亜』の同人となり、中心的役割を果たす。詩を圧縮した短詩形式を創始し、大正末期の日本詩壇に新風をまきおこしたとある。本人に言わせると17歳から試作をはじめたようだ。後輩である財前昭一は滝口武士を偲ぶ挽歌、忘我自失の中で、「国東に輝く星に三つあり神父カスイに梅園、武士」と歌っている。

 また、あとがきの中で佐藤一斎「言志四録」から、「少にして学べば、即ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず」を引用して武士の生き方を賞賛し魂の師であると言い切っている。

 これから数回にわたって滝口武士を財前昭一の著作を通じて紹介してみたい。

(写真は市役所脇のくにさき公園内の詩碑)

梅園詩集研究2009-06-25 02:23:15
 故上田勉さんは田深の住人ある。大正9年生まれ、学業後満州国、奉天在満国民学校に奉職、終戦後5年間のシベリア抑留、昭和25年復員、教員生活に復職、昭和56年校長を最後に定年退職。その後梅園学会、梅園研究会に入会、梅園研究に没頭する。梅園詩集上巻を自費出版。出版を目前に病に倒れる、享年67歳。

 下巻も原稿は完成していたが出版はされていない。ご覧いただくようすべて手書きで大変滋味ある解説本である。この詩は詩集の冒頭の一首である。「垂釣」ーきれいな谷川の一隅につり糸をたれる 谷川のほとりは人声もまれである まわりはもごもややがもが生い茂ってうす暗く 時々かもめやしぎが近づいて飛ぶ およぎまわっている魚が集まってはまた散っていく こうして一日中川原の磯に座り ひとり釣りを楽しむー上田勉訳。

 この詩は梅園22歳の詩である。この歳にして大自然の中に没入沈潜する超俗の雰囲気があるとは勉さんの評である。奥さんによれば勉さんは退職後、寝食を忘れて梅園研究に打ち込んだらしい。梅園さんには人を取り込む何かがあるようだ。

川の音22009-06-24 08:00:15
 前回の川の音記事には水の音が記載されていませんでした。読者の中には不思議なことと思われていたと思います。あの時は野鳥の声だけで水の音がなかったんです。今回の写真は撮りたて、24日午前6時ころ、堰を流れる川音が聞こえませんか。昨夜からの待望の雨で堰に白波しぶきがみられます。これで田深谷の農家も一安心です。野菜も稲も一息つけます。田深谷のくらしでは雨がいつ降るのかは重要な関心事です。古代人の雨乞いの儀式はいろいろ残っていますが、古代の田深谷ではどうだったのでしょうか。今回は儀式の一歩手前の気配でしたが、なんとかクリアーです。昔も今も祈るしか方法はないのでしょうか。中世以降は国東半島はため池が多く築造されていて、地域の宝物になっていますが、ため池の多さは水との戦いの歴史でもあります。最も古いものは万治元年(1658)の万治池(富来谷大恩寺)です。

 川にはせせらぎの音が必要ですね。自然に感謝する気持ちが大切です

市議会傍聴記その22009-06-23 04:50:15
 通告書要旨の中に「価原」の言葉あり。通告書にはー古法に学ぶ経済理論の認識をー地方経済の基本とも言うべき「価源」という蔵書が、国東市梅園資料館にある。国東市民全体の意識が変わることにより、消費や生産、販売の流れが変わってくる。所管部局はその啓発を行うために、そうした知識を取り入れたらどうかー。

 価原は安岐町富永の先哲三浦梅園、1773年、51歳のときの著作です。宇佐の医者の問いかけに応じて条理に照らして経済論を展開したものです。 64歳のときの「丙午封事」とともに政治経済を論じていて重要です。江戸時代にあって、職を賭けて正しいと思う意見を述べ、君主もその意見を受け入れていたことを知ることが出来る。政治家、管理者およびかれらを補佐する人々は読んで欲しいということであろう。梅園の貨幣論はアダムスミスの国富論に先立つこと3年、すぐれた経済理論でもある。市議会の中でこういう発言があることがすばらしい。市政改革は小さな心の改革から初めて大きな改革になって行くのであろう。健闘を期待したい。「価原」はインターネットで公開しているので検索してほしい。不明の場合にはメールいただければ対応します。

市議会傍聴記その12009-06-22 07:20:15
 わずかの時間の傍聴でしたが、印象を述べることにします。はじめてなので子供のような気持ちでした。傍聴したのは「平成21年第2回国東市議会定例会」18日で議事日程第3号にもとずく議事でした。一般質問通告書を受付で記名後受け取り議場に。議場最後部に20名ほどの席があります。この日は満席でした。通告書には質問順序、質問者、質問事項、質問要旨などが記載されていてわかりやすい。

 冒頭は市政全般についての質問のせいか市政執行側から入れ替わり立ち替わりで10名の市幹部が説明、かなり重要なこともたくさんありました。内容は数ヶ月後の議事録に期待してください。現在3月定例会議事録が公開中。

 議事録をはじめ市政情報の公開は市広報、インターネット上、ケーブルテレビなどで行われていますが、より一層の情報公開をスピード化して「見える化」政策を推進すべきでしょう。今回の議事録公開がいつになるのかわかりませんが1ヶ月後では遅い少なくとも1週間以内には公開出来るスピードが必要。通告書はインターネット上ですでに公開されています。市の財政が厳しい分、情報公開サービスを徹底して市民の協力を得る努力をするのは公僕としての義務である。役割を確認してスピード公開を!。

(写真は市役所本庁、この3階に議場があります)

陽弓遺跡2009-06-20 02:47:15
 陽弓遺跡は、国東町内中央を流れる田深川支流にあたる横手川左岸の小丘陵の南に面したゆるやかな斜面で、標高約65m。海岸線より約11km上流域の山間部に位置する。近くには泉福寺がある。泉福寺北側の小丘陵の山を越えると、縄文早期から晩期までの遺物が検出された成仏岩陰遺跡が存在する。 本遺跡は、主に縄文時代後期から晩期と考えられる三万田式土器が多量に包含されている地区で、国東町では初めて発見された土偶が四体も出土しており大変貴重な遺跡である。縄文時代の遺跡である成仏岩陰遺跡(早期)、羽田遺跡(前期)、ワラミノ遺跡、下堀田遺跡(後期)などに加えて当時の様相を解明する貴重な研究資料である。 国東町で初めて発見された四体の土偶は縄文後期における精神文化の豊かさを彷彿とさせるものである。これらの遺物等の検出は、国東町の歴史の解明の灯をともしたと言えそうだ。この国東半島には縄文時代から人間が住み着いた確かな証拠が増えたことになる。成仏岩陰遺跡やこの陽弓遺跡は標高が高いところにあるのも特徴の一つである。

さてさて、陽弓という名前はどこから来たのか。泉福寺開山堂は1394年に建立されたとあるが、その前後か。興味はつきない。

ペースメーカーの父2009-06-19 13:32:15
 田原淳(たはらすなお、1873-1927)は安岐町出身で、ペースメーカーの父と言われている。1903年 東京大学を卒業後、私費でドイツへ留学。マールブルグ大学病理学教室でアショフに師事。1906年苦労の末に田原の結節ー心房と心室とをつなぐ特殊な心筋線維が存在することを発見し、この心筋線維こそが心臓拍動の「刺激伝導系」であることを明らかにした。 心電図法の確立やペースメーカーの開発の基礎となるノーベル賞に価する大変な偉業であると言える。帰国後、福岡医科大学(現九州大学医学部)の助教授となり、翌年には35歳にして教授に就任、退官後は名誉教授となる。

 ここ数年田原博士が刺激伝導系を発見して100年が経ったので、その功績を顕彰するNPO法人が発足、シンポジュウムを開催している。「田原通信」を発行したり、マンガによる伝記などもある。2008年の中津市で開催された公開シンポジュウムには参加したが100人を越える参加者があり盛況でした。講演者と紹介者が壇上にあがり、4〜5分ぐらいづつ話す展開で、医者が患者をみる時間区切りのようで忙しいこと限りなしでした。こんなやり方もあるんだと妙に感心した次第である。

 安岐谷にある生家も訪問したが、子孫の方が健在でした。安岐谷も偉人を輩出する谷のようですね。脱帽。

川原条里遺跡他2009-06-18 18:49:15
 国東町川原に所在する川原条里遺跡千疋上り地区は、田深川北側丘陵の南向き斜面下にあって低位河岸段丘上にあります。県営圃場整備工事に伴い1996年度に発掘調査を実施した遺跡である。この遺跡の立地する田深川下流域左岸は、古代から中世に形成されたと見られる条里遺構が分布する地域であり、当時は一町四方の区画と短冊状の地割りが規則正しく展開する景観を呈していたであろう。調査では古代の水田の可能性がある遺物を包含する泥炭層や中世の製鉄関連遺構と堤防状遺構が検出され、古代・中世における鉄生産の展開や旧河道の形成、さらには条里遺構との関連性にまで発展する貴重な資料を得ることが出来たとある。古代この地区は海岸がせまっていて砂鉄採取が容易であったと思われる。ちなみに1町は約109.09メートル。条理は格子状で方向は東西南北となっている。基軸は現県道で西方向(上流方向)に谷がわかれる川原上地区まで一直線、両子山山頂に向かっている。古代人は田深谷の空間構成を把握した上で、条理を組んだようだ。現在でも区割りの原則は生きているようだ。

新科学モラロジー2009-06-17 15:57:15
中津の人材続きです。廣池千九郎は、明治から昭和へと流れる激動の時代を生きた偉人の一人です。 福澤がなくなった時、廣池は35才であり、同郷人として面識があったのかどうか。 多くの業績の中で、持てる力のすべてをかけて生み出した「新科学モラロジー」は、今もなお独自の光彩を放ち続けています。その偉業と人間的魅力は、多くの人々を引きつけています。明治19年(1886年)下毛郡樋田村に貧しい子供のための夜間学校を設立、明21年(1888年)道徳(修身科)の教科書『新編小学修身用書』を編集、明治24年(1891年)には「大分県共立教育会」の中に日本最初の教員互助会を設立するなど、地域の教育改善に取り組みました。その後早稲田大学講師、伊勢の神宮皇学館教授を経て、現在の麗澤大学の基となる道徳科学専攻塾を開き、塾長として、多くの人材を世に輩出しました。彼が方向を示したモラロジーによる生涯教育活動は、学校教育が麗澤大学、麗澤高等学校などを有する学校法人廣池学園へ、社会教育は財団法人モラロジー研究所へと受け継がれ、日本道経会など、今日の生涯教育活動の展開に至っている。大正2年、天理教の学術調査を経て、天理教教育顧問・天理中学校校長に就任した時期もある。千九郎さんは温泉との関係が深いようで、強度の皮膚神経衰弱で、時々発熱を伴って多量の発汗をし、体温を保持することが困難となるため治療目的の温泉旅行でした。温泉の数は100ヶ所に及ぶようです。偉大な思想に温泉あり。(写真は柏にある廣池学園内の千九郎の立像)

福澤諭吉展2009-06-16 09:30:15
 中津の骨っぽい人をもうひとり紹介する。万札の人。東京に続いて福岡での「未来をひらく福澤諭吉展 −慶應義塾創立150年記念−」は14日に閉幕したが、大分県出身の故人に敬意を表して巴田、吉田の同級生3人で 直前に参加。展覧会のテーマは「異端と先導ー文明の進歩は異端から生まれるその時、福澤は何を考え、どう行動したか。」であったが、うまい表現を考えたものだ。1858年に23歳の若さで江戸に蘭学塾(後の慶應義塾)を開いた人が150年後万札の人になるという強運のお方ではある。展示では福澤の人脈の多彩さと海外体験やアジアへの視点など、国際社会との取り組みなどが検証されていた。当時の知識人がこぞって官職を求めたなかで、生涯、無位無冠の一市民であることを貫いたのは勇気がいることであった。

「異端」として排斥されることをも恐れず、権威や世論の大勢に抗して、自分の知性が信ずるところを堂々と述べる勇気と気品。福澤は、そのような姿勢にこそ、文明の進歩があると信じた思想家でした。前回紹介の松下竜一に通じる道でもあります。福澤は居抜きの達人であったらしい。カーッ。

『豆腐屋の四季』2009-06-15 03:51:15
 今回は国東半島田深谷から出て中津の人を紹介する。松下 竜一(1937年 – 2004年 )は、大分県中津市出身。時流に屈することなく生きた誇り高き人のようだ。表題は初期の代表作品。

1970年、豆腐屋廃業して作家宣言し、公害問題に関わり膨大な著作をのこす。今でも有志が遺構の出版活動を続けている。1970年代の九州電力豊前火力発電所反対運動は環境権をかかげての戦いであった。残念ながら裁判では負けたが松下さんの主張は間違っていない。しかし環境権とは何?。連想ゲーム的に、今風にいえばレスターブラウン、生物多様性などだが、複雑な社会のなかの人間の生活環境とはどう考えたらよいのか。今の時代多くの人が「自然支配から自然との共生へ」、「人間中心から生命中心へ」「量重視から質重視の生活へ」と言っている。ほぼ30年前の彼の主張は今でも生きているのだ。松下さんは類い希な環境派硬骨漢であったといえる。

「破れたり破れたれども十年の主張微塵も枉ぐといわなくて」環境権裁判控訴審判決の日の歌。中津の人も骨っぽい。

国見の歴史と文化を高める会2009-06-13 07:01:15
 公開講座に参加。講師は県立博物館の高橋徹館長、「国東半島のお宝〜国東塔の魅力再発見!」。国見生涯学習センター・みんなんかん。12日14:00-15:30。

 この会の第7回総会前の講演で、国東半島にある170基の国東塔は形状、建造時期などから大きく2型9式に分類出来るとのことでした。このような分類は高橋式ともいうべきもので本邦初であると強調されていたのが印象的でした。国東塔は13紀末から16世紀後半のほぼ300年間に建造されたのです。この国東塔、石橋、仁王像、摩崖仏など国東半島を初めとして大分県下には「石の文化」がある。世界に誇れる文化であると語気を強めての話は世界遺産運動と関係してのことか。 全体としては国東塔初期講座で大変興味深いものでした。

ーーー半島の先人は火山噴出物としての安山岩が広く分布しているという自然の恵みを巧みに利用して信仰対象を具現したわけで、半島人の豊かな詩情が石文化を創造したのでしょう。感謝すべきことでもあると思う。郷土の文化を大切にしたい。(写真は大光寺国東塔)。

「 京一」地名は生きているシリーズ012009-06-12 07:58:15
 国東半島はめずらしい地名をたくさんもっています。少しづつ解明していきましょう。地名は生きていて、歴史の中で変わっていきます。しかし変わないものもあるわけで特に小字(こあざ)地名は変わりにくいようです。まずは「京一」。

 田深川の支流の赤松川の沢つまりに京一があります。「京」とつく地名は以外と多いのですが、場所から考えると大変めずらしい。「京」は卜字(ぼくじ)では図のようにかくのですが、古代中国では異教徒との戦いは邪霊との闘いであるとみなされていました。したがって、その侵入に対してちゃんと防衛策がとられた。そういう防備がゆきとどいたところが都城であって、そのため「京」といゲートを示す形であらわされる中心地になります。赤松谷奥には集落が少なくて「みやこ」です。不思議です。「一」は市の意味です。ここは空間的には開けていて、地味肥沃でそば、こんにゃく、里芋などが豊富に出来ていて市(いち)が形成されたようです。山道を利用すれば谷同士は近いのです。いわば交通のかなめだったんですね。海まわりからの交通では一番遠いところですが両子山中心に考えれば便利のよいところです。前10世紀の殷周の卜字の世界が伝わっているのですからすごい。

戦没哲学徒の詩集・孤櫂(ことう)2009-06-10 10:09:15
 国東半島の最東端にある黒津崎は白砂青松の景勝地で、国民休養地になっている。道の駅、サイクリングセンターの脇に海岸に降りる歩道がある。降りきったところに石碑があり、その脇に小さな石造りの名刺受けがたたずんでいる。後藤三郎、昭和50年(1945)5月、ルソン島ソラノで戦病死、22才。

「水とほし、 己が世の海を 望み立つ 岬の思ひ」

後藤三郎君は国東町後藤秀雄の三男である。ただ一つの詩集・孤櫂は学徒出陣を予感しながら、学問への純粋な断ちがたい執着や、詩と哲学との深いかかわりを究明しようとして果たせず、苦悩する魂へのいたわりと友情を込めて書き綴ったものである。いまでも岬に立って哲学する姿が見えてくるようだ。ご遺族の厚い思いが伝わってくる黒津崎である。名刺受けは父故秀雄が受け取れるよう設けた。今誰が・・・。

散策の祭には是非お立ち寄り願いたい。坂道登りは哲学の径。

西林寺・田深学校2009-06-08 19:55:15
 明治5年(1872)8月の学制改革により、子女を教育していた西林寺の寺小屋は田深小学校として開設し、常誉上人並びに常戒和尚が先生となり教える。その後明治12年、今の市役所に移転、明治36年飯塚城趾に校舎を新築し今の国東小学校となった。

 田深谷の教育の出発点がこの西林寺である。

新たに設置された木柱には太政官布告が公布された時の「一般の人民必ず邑に不学の戸無く、家に徒なからしめんことを要す、云々」から「区は学ばざれば戸なく、家は学ばざれば徒なし」と書かれている。明治政府の教育に対する気概が伝わってくる。

 西林寺にはなんの所以あってか藤原義江(1898-1976)が子供のころ寄宿して悪ガキの大将をしていたと自書の中で書いているようだ。声が大きく村中の評判になっていたらしい。記録によれば、藤原義江は、当時、山口県下関で貿易商を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リードと、坂田キクとの間に生まれた。リードとキクは故あって別れた後、母子は九州各地を転々とする。義江が7歳くらいの時、現在の大分県杵築市の藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、またはじめて日本国籍を得ることとなった。この転々の地のひとつが国東・田深である。藤原が寄宿したのは西林寺が寺小屋的な教育環境であったのが関係したのかあるいは僧門の関係かも知れない。その後時期が不明だが藤原は田深を訪れ、当時の戦争ゴッコの仲間と再会している。海に近い西林寺はこの当時漁村の中のお寺という感じであったらしい、慶長3年(1598)の創建で、浄土宗の古刹であり、阿弥陀如来様他が鎮座する。

川の音2009-06-06 20:54:15
 川はたくさんの音を持っています。この時期まずはヒバリが空高くあがり、ピーヒョロロ、ピーヒョロロと結構永く囀っています。つぎは川の底から聞こえてくるグッワー、グッワーの奇声をはっするトノサマガエル。あまりの声の大きさにびっくりさせられます。カラスの声が聞こえますが、なしか!声に色気がありません。カッー、カッーですからね。かわいい声のホトトギス、時と場所によって音色が違います。田深川ではホーホケキョ、ホーホケキョが多いようですが、ホーケキョ、ホーケキョと聞こえたり、ホーがなくてキッヨ、キッヨもあります。どこからかわからなのですがポーッ、ポーッとあきらかに鳥の声ですが、なごやかな声が聞こえます。なぜか散歩中の犬様はワン、ワンと吠えません。時々遠くの方から車の走る音が聞こえます。まーこんなところで、なにもめずらしい音はないのですが、ハーモニーがよろしい。最後はやはり風の音と気配です。田深川は西から東に流れていて、東風(海風、こちのかぜ)が多いのですが、天気の変わり目には西風になるようですね。本日西風。

遺跡分布2009-06-05 03:40:15
 田深谷にはおおくの埋蔵遺跡が分布しています。大半は右岸で、主なものをあげますと、安国寺遺跡(吉継地区・前田地区・割田・日ヤケ・亀井)、畑中遺跡、平等寺遺跡、原遺跡(七郎丸地区・原ノ下地区・餅田地区・亀井地区・平原地区)、口寺田遺跡、小谷遺跡、川原条理遺跡 (千疋上り地区)、松屋敷遺跡、飯塚遺跡などです。時代は縄文後期から弥生時代が多いのですが、奈良・平安時代もあります。当時は大雨毎に田深川は氾濫していて低地に住む住民は大変でした。特に右岸に遺跡が多いのは、川の氾濫の歴史でもあります。昭和20年代田深川が氾濫して床下浸水の記憶がありますが上流の行入ダムの建設、堤防の整備などで川が落ち着いたのは最近のことです。水害のことなど忘れて日々の生活がありますが、「災害は忘れたころに・・・」などという言葉、あ!これは寺田寅彦さんの地震云々でしたかね。油断禁物です。はい。

銅像ふたつ2009-06-01 19:48:15
 国東市の公民館(アスト)の一角に銅像が二つあります。向かって左は元田肇(もとだ はじめ)さんで1858年(安政5年)生まれで1938年(昭和13年))没、明治、大正、昭和期に活躍した国東の政治家です。号は国東(こくとうという)。第24代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任し、東久邇宮内閣で国務大臣を務めた陸軍中将小畑敏四郎や衆議院議長自民党副総裁を務めた船田中の義父に当たります。中央大学創立者18人の内の一人でもあります。 1932年には、74歳で政党出身者ではじめて枢密顧問官に親任されるという経歴の持ち主。7,8年前、東京青山墓地のお墓にお参りしたとき、きれいに清掃されていたことや、その後、来浦谷の実家をお訪ねしたことがありますがお孫さんが一人で住んでいて、元気であることなどが思い出されます。帰郷時の書斎がそのまま残されていて故人を大切にしているこに感銘しました。もうおひとりの右のお方はかっての町長、岐部与平さん(昭和48年、国東町史発行時の町長)である。町長在任中ではないが、記録では存命中に建てられたようである。もともと出身地の岐部(ペトロカスイ岐部神父の銅像と同じ場所)にあったものを現在地に移したらしい。いずれも国東市にとっては偉人であるが、時間の経過とともに忘れられていくのか。故岐部さん息子が同級生である。今度いつか与平さん存命中の苦労を聞いてみたいと思っている。人間は死して何を残すのか。銅像はかたらず。老子は言う「道の道とすべきは常の道にあらず」と。与平さんの銅像写真は改めて紹介したい。

シロネ(希少植物)2009-05-31 13:26:15
 田深川安田橋は河口から1.5kmぐらいにあり、井堰があって海水が進入しない場所ですが、ここから上流にかけてほぼ0.5kmの範囲に希少植物シロネの群生が5ヶ所見られます。上の写真は安田橋の上からみえるシロネです。

 シロネは北海道から九州、東アジア・北アメリカに分布する多年草。沼沢地・湖岸・河原などに生育するようで、地下茎から直立して高さ1m前後になる。土中あるいは地表を這う地下茎があり、群落を形成する。茎は四角で節には毛がある。葉は長さ8~15cmでながく、縁には鋭い鋸歯がある。表面は無毛であり、裏面には中脈上に毛がある。形のよい群落を形成しているので発見されやすい。どういう経過で田深川に住み着いたのか興味がわきますが、動植物の多様性維持の必要性が言われており、ひとつひとつ大切に育てたい。自然の多様性を維持することが人間世界の多様性を認めることに通じるのではないでしょうか。シロネが主張しています。

伊能測量隊が国東にも2009-05-28 16:01:15
伊能忠敬は江戸時代の偉人であるが、豊後にもゆかりが深い。忠敬が師事したのは当時の幕府天文方・高橋至時(作右衛門)である。この高橋は杵築藩の出身で、麻田剛立の一番弟子であった。伊能測量隊は日本全国を10次にわたって測量しているが、その7次目の1810年、文化8年、国東半島を時計まわりに測量作業を行った。東国東の竹田津、小熊毛、富来浦、小原、下原に宿泊している。上の写真は同年2月6日、安岐谷の下原、福力屋儀兵衛宅に宿泊したことを記念して建てられたものである。一行は18名で杵築藩は周到な準備で一行を迎えたらしい。麻田剛立こと綾部妥彰の一件(脱藩事件)がありなおさらであろう。福力屋はすでに屋敷は跡地のみで、道路も改変されていて記念碑の場所はすぐ近くの国道沿いの場所となっている。伊能図が復元されたり、第二の人生の生き方見本として研究されたりしてこの人物に注目が集まっている。国東半島もまわっていただき感謝しましょう。

住職と国東塔2009_05_27 08:38:15
 武蔵谷の三井寺の照恩寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。ここには岩戸寺国東塔に次いで2番目の古さを持つ照恩寺国東塔がある。正安5年(1316)の紀年銘がある。銘文でも分かるように、最初は照恩寺に隣接する 椿(つばき)八幡社に立てられたものである。明治初年の排仏毀釈(きしゃく)の際に土中に埋めたと伝えられている。現在地には明治22年(1889)に移されたという。露盤がやや大きすぎるきらいがあるが、塔身の曲線は優美である。武蔵町三井寺の駐車場にたどり着く道はかなり狭い。国道213号線武蔵町古市交差点を山方向へ進入し、約1km走行すると武蔵川にかかる最初の橋が有る。その橋を渡り、5〜6百メートル走ると右方向に寺の鐘楼が確認できる。

 なんとここの住職は高校時代の同級生、魚返君。どこかの寺院の息子とは聞いていたが、優美な国東塔のある照恩寺であったとは。記憶では50年ぶりの再開である。お互いに排仏毀釈(?)に会わずに今生きていることに感謝。案内の同級生、巴田君にも感謝。

故人の業績2009-05-25 08:38:15
24日 故中尾彌三郎の告別式がありました。90歳とのことです。中尾さんは昭和50年(1975年)から3期12年、安岐谷の町長を勤め大分空港の開港に伴う地域振興などに多大の功績を残された方ですが、それ以上に地元の先哲三浦梅園の研究に打ち込み「三浦梅園外伝」「三浦梅園遺墨撰集」を自費で出版されて後学に道を開いたことは特筆すべきことです。昨年9月頃ご自宅を訪問した時はまだお元気で遺墨撰集の編集のご苦労を語っておられました。カメラマンをつれて県内を広くまわり資料の記録を努めたとのことでした。やすらかにお休みください。合掌。

おとなりのホテイアオイ2009-05-23 17:11:15
緑の侵入者にこだわっています。

今日の地元紙によれば、南の武蔵谷では 異常繁殖の水草除去を 地域住民が集まり、別府大学短期大学部の荒金正憲名誉教授、マリンカルチャーセンターの浜田保学芸指導員から河川の生態系などについて説明を受けた後、作業を始めた。

 国東土木事務所の職員らが川に入りホテイアオイをかき集め、地域住民がバケツリレーで運び出す作業を繰り返し、二トントラック七台分(約四・三トン)を除去した。川づくり委員会の石川美恵子委員長は「かなりきれいになった。地域の川は地域住民の手で守り、地域づくりに生かしていくという意識が高まったのでは」と話した。

とありました。先に報告の田深谷は業者が除去作業しましたが、武蔵川は地域住民とのこと、さてさてこの差はなんでしょうか。誰が何を反省していいのかわかりませんが、反省します。写真は田深川のシロネ(希少植物)です。シロネは群生します。田深川の5ヶ所で確認しました。川を大切に。

ほてい草除去022009-05-16 09:25:15
かなり上流までの除去作業が終了です。写真の範囲では完璧なほてい草なしです。これからの季節はほてい草の増殖期間にあたりますので注意が必要です。昨年の経験でいえば、大雨の後の増水時に一気に安田橋付近(写真の撮影位置)の堰で増えましたので、上流から流れてきたことは間違いありません。今でも上流部にはあちこちにこの侵入者はいますので、増水時には同じ事態になるのでしょうか。ウォチング続けます。ご覧いただく写真のように無風時には両子山塊が水面に映えて山水一体の景色が楽しめます。これに夕日があると最高の景色になります。この日15日はあいにくのくもり空で夕日がありません。

田深川のほてい草除去012009-05-08 21:07:15
7日から始まった除去作業は今日で2日目、写真の範囲は除去出来ましたがまだまだです。ほていの群生を団子状の島に分離、潜水専門が担当、流れにまかせて1ヶ所に集めて、バックホーですくいあげてダンプに積み込み、20km先の土捨て場に運搬。なかなか大変な作業です。この外来種は繁殖力が強く、油断大敵です。今後とも観察を続けましょう。

田深谷の夕日2009-05-07 14:59:15
この時期の18時30分ころ、太陽は文殊山付近に沈んでいきます。両子山を挟んで反対側の香々地の海岸線ではきれいな夕日をみることが出来ます。日々太陽が沈む位置を変えるので、すごく季節がわかります。手前は水田です。立夏 (りっか) 、太陽視黄経 45 度、この日から立秋の前日までが夏。野山に新緑に彩られ、夏の気配が感じられるようになる。かえるが鳴き始め、竹の子が生えてくる頃。歴こよみのとおりです。田深川のかえるがそう申しています。いつも変わらぬ風物誌です。はい。

田深川のほてい草2009-05-04 09:14:15
田深川は緑の侵略者でいっぱいです。侵略者はほてい草とぼたん浮き草です。いずれも熱帯アメリカ原産で、国内では南関東、北陸より西の各地に帰化しています。大分県下の川で大発生です。ほていの茎は水中にあり、そこから葉を出します。葉の柄の根元には丸い浮き袋があり、水面に浮いています。根元からつる枝を出して子株を作ることによって短期間に大群落を作ります。ボタンウキクサは緑のボタン状できれいなものです。冬場にも強く越冬できます。一方ほていは9月頃白い花を咲かせますが(上の写真)、寒さに弱く枯れてしまいます。昨年の夏、大雨のあと上流から流れてきたのか大発生です。川面が隠れてしまいました(下の写真は今年4月頃の写真で、枯れたほていの上にぼたん草が出ています。外来種は強くたくましいため地元植生は押されぱなっしですね。なんとかせねば!

→河川管理者もなんとか動きだしたようで、連休明けから除去工事がはじまるようです。

閉店しますー50有余年2009-04-28 18:55:15
 田深谷の唯一の商店街の一角にある呉服屋さんが閉店です。「創業以来50年近くにわたり営業・・・」と銘うっての閉店セールスが終了しました。全商品売り尽くし、9割〜5割引き、・・・。

 このお店は個人商店で永くやってきて、今日まで持ちこたえたのでしょうか。よくここまでがんばったとエールを送りましょう。スーパー、コンビニが全盛で個人商店系がほぼ全滅状態ですね。いわばシャッター通りは80年代から始まっていて、日本全国どこでもの事態でしょうが、果たしてこれでいいのでしょうか。何故個人商店はやっていけないのか。生産者と消費者が直接結びついたシステムが出来たためと言ってしまえばそれっきりですが、ちょっとさびしいかぎりです。個人の生活システムをどう築くかという観点からの改革が必要でしょうか。

自動田植機と田んぼの大きさ2009-04-20 11:53:15
田深谷はいたるところで目下田植え中です。この田植機は一式500万円くらい。1反田んぼではあっという間に作業終了です。1反からは日本人1人あたり1年分のお米がとれます。昔のはなしですが。 1反の大きさがわからない? →1反は30m*30mくらいの大きさです。300坪。一歩(ぶ) 3.3058平方メートル(一坪と同じ)一畝(せ) 99.174平方メートル(30歩で一畝)一反(たん) 991.74平方メートル(10畝で一反)一町(ちょう) 9917.4平方メートル(10反で一町)田んぼの広さも人間中心に決められていたんですね。住む家も坪単位が生きています。くらしの単位大切にしましょう。

メランジュからのメッセージ2009-04-20 11:19:15
 メランジュとは日本列島の基部を構成する地層混合体のことです。プレートの動きで地層が押し込まれて混合していきます。列島の一部は太平洋の南部から長い旅路のはてに現位置に移動してきました。大地も旅人なのです。田深人も旅人。ここ国東(くにさき)は両子山(標高721m)を中心として直径30kmの円形の半島です。東西南北に28谷があり、ほぼ10万人が生活しています。田深谷は両子山から真東に向かった谷で、ほぼ1万人が住んでいます。日々のくらしをお伝えします。
それとこのプログ「田深谷のくらし」です。田深は「たぶか」と発音します。

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エアーフロント協会の新たな展開

エアーフロント協会は航空・空港都市の創造をめざして、1989年(平成元年)に誕生、1997年までセミナー、シンポジュウム、海外調査、調査研究事業等実施してきました。それ以降、このホームページを通じて、エアーフロント(空港都市)の創造をめざして広報活動をしています。

航空ネットワークは世界の都市を空港がある限りどこでも結ぶことが可能です。双方向に、同時に。かってのシルクロードはリニアの連結で、モノとヒトと場所(大地・海上)が介在しますが、航空ネットワークは面的に、空間的にヒト・モノが多方向に、ダイレクトに連結することが可能です。一方、情報ネットワークは社会ネットワーク(SNS)を形成して個人的な新しい情報の交換と情報の共有が多層・多重に連携してネットワークが進化しています。

2011年の311大震災は人類の文明史の上で大きな出来事を刻みました。地震、津波、洪水、原子力施設破壊、放射能汚染など計り知れない事象が進行中です。きっかけの地震・津波は地球が生きている証拠であり、自然現象です。火山活動を含めて人類にとっては天災と言っていいでしょう。

それに対して津波災害、洪水、放射能汚染などは人災です。天災と人災 考えていきたい。寺田寅彦は「天災は忘れたころにやってくる」といいましたが、311の一連の出来事(イベント)はすべてが偶然かどうかは疑わしい。

地震予知研究・津波対策や原子力研究などには今までに相当なエネルギーを投入して研究してきたのではないでしょうか。このイベントは想定外であると言ってわれわれは逃げていないか。科学技術を過信していないか。反省することはないか・・・・・。今回の事態は自然が人類に下した鉄槌ではないかと思います。

自然と人間の関わり合いをライフサイクルとしてかんがえられないか。エアーフロントはー21世紀の新たな思考ーネットワーク思考(イデア)ーを創りたいと考えています。

□□□過去から、現在、そして未来へ ひとネットの時代 2011年□□□

□□□地球を救おう。豊かな自然を守るのは人類の役目です□□□

エアーフロント協会代表世話人 田深谷住人

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Hello world!

ようこそエアーフロント協会へ!

従前のエアーフロント協会のホームページ「http://www.airfront.jp」はしばらく休止します。ここで「airfrontlink.wordpress.com」で最新の情報をお届けします。

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